高さ96センチの絵を、指で描く
池大雅は、高さ96センチの山水画(山や川の景色を描いた絵)を、指先や爪で描いた。江戸時代、京都に生まれた画家・書家である。その一幅、メトロポリタン美術館にある《指墨山水図》は、紙に墨と色を用いた掛け軸だ。制作年は、はっきりしていない。
幅は27.2センチしかない。大雅は、縦に細長い一幅の山水を、手で描いている。指先だけでなく、細い線を引く爪も道具になる。こうした描き方を、指墨画、あるいは指頭画という。
しかも、この絵には淡い色が添えられている。大雅の指墨画はほとんどが墨だけで描かれており、彩色した例は少ない。
指を使う大胆さに、淡い色を加える細やかさが重なる。大雅にとって指墨画は、墨で描く表現を試す仕事だったと読める。
けれど、爪で線を引くとは、どういうことなのか。硬い爪に、筆のように墨を含ませられるのだろうか。
爪の内側に、墨を含ませる
その疑問に答える記録が、中国の画家・高其佩について残っている。清の時代(日本の江戸時代と重なる)に指頭画で名をなした人で、山水ばかりでなく、人物、花や鳥、獣も指先や爪で描いた。その指頭画法は、池大雅ら日本の南画家にも大きな影響を与えたとされる。
この図は、十図を綴じた画冊の一図である。高其佩は、小さな画面にも大きな画面にも指頭画を用いた。紙の大きさが変われば、指の使い方も変わる。
高其佩の従孫(兄弟の孫)で、その技法を記録した高秉は、『指頭画説』を残した。それによると、細い線を引くときには、爪の内側に墨を含ませた。爪の先端から墨を流れ出させながら、線を引くのである。
内側に含ませた墨は、ペンのように爪の先から流れ出る。髪のように細く、針のように鋭い線も、たやすく引けたという。爪を線の引きやすい長さに保つことも、この描き方の一部だった。
同じ記録では、高其佩は通常、親指、薬指、小指を使ったという。小さな冊子や巻物では薬指と小指を交互に用い、大きな画面では薬指と小指を同時に使う。雲や水の流れを描くときには、親指・薬指・小指の三本を併用した。
記録によれば、高其佩は指の腹を墨にひたして使った。指で描くという一言のなかに、これだけの手順があった。
これは高其佩の描き方である。大雅も指先や爪を用いたが、《指墨山水図》の個々の跡をどの指で描いたかまでは、所蔵館の解説も記していない。
扇を売っていた青年の手
大雅は1723年、京都に生まれた。少年時代から書に優れ、15歳になると扇屋を開いて生計を立てた。
扇に描く絵は、中国から舶載された画譜などを参考にしていた。画譜は、絵の描き方や構図を集めた本である。それを見て学び、扇に描いて売る。若い大雅は、すでに筆を使って仕事をしていたのである。
その大雅が、20代、とくに後半に多く手がけたのが指墨画だった。書も絵も描く青年が、描く道具を自分の手に替えた。
どこで指頭画を知ったのかには、いくつかの考えがある。黄檗宗の僧を通じて知ったとも、朝鮮通信使の画員として来日した崔北が、人前で指頭画を描くのを見たともいわれる。大雅が師事した柳沢淇園も、指頭画を得意とした。26歳のころには、江戸から東北を旅し、得意の指頭画で評判をとっている。
中国の画譜を手本にすることと、新しい描き方を試すことが、一枚のなかで重なっている絵がある。1746年に指で描いた《柳渓渡渉図》である。
千葉市美術館にあるこの作品には、中国の『八種画譜』に収められた、川を渡る人物の図が手本として使われている。大雅はそこに橋と遠くの山を加えた。場面を借りても、一枚の絵にするときには自分で手を入れている。
描き方にも工夫がある。爪の線と指先の点に加え、柳の葉には墨のにじみを生かした。薄い藍と赤茶色も添えられている。
冒頭の《指墨山水図》と同じく、こちらも色を含む指墨画だ。墨だけで終えるか、色も加えるか。大雅はそこを選んでいたように見える。
描いている手も見せ場になる
指墨画には、人前で即興的に描くという背景がある。宴会や集会の席で、求めに応じてその場で絵を描くことを、席画という。大雅も、そうした場で指頭画を披露していたらしい。
完成した掛け軸では、画家の手はもう見えない。席画では、絵が生まれる途中の動作も見せ場になる。墨のついた指が紙に触れ、爪が線を引く。その場にいる人は、絵と、それを作る手を一緒に見ることになる。
高其佩の指頭画を見た人々は驚嘆し、争ってその絵を求めたという。ただ、大雅の《指墨山水図》が人前で描かれたかどうかは分からない。
この掛け軸に残っているのは、描く道具を替えた画家の試みである。爪には爪の線があり、指先には指先の跡がある。筆で描いた線へ近づけるばかりでなく、手で描くからこそ生まれる形を、大雅は探っていた。
指墨画を多く描いた時期は、生涯の一部だった。30代になると、その制作は大きく減っていく。大雅は日本各地を旅し、実際に目にした風景を描く仕事も重ねた。描き方を探る青年の関心は、指墨の外にも広がっていた。
墨だけで終えなかった一幅
ここで、メトロポリタン美術館の《指墨山水図》に戻ろう。
指で描いたと知ると、まず、どうやってこれだけの絵を描けたのかが気になる。高其佩の記録には、その驚きを支える細かな工夫があった。指を使い分け、爪に墨を持たせ、紙の大きさに応じて手を動かす。
高其佩の名を高めた指頭画法は、海を越えて大雅にも届いた。大雅はそれを自分の絵のなかで試した。《柳渓渡渉図》では手本に手を加え、にじむ墨を使った。《指墨山水図》では、そこに色を添えた。
この一幅で目を引くのは、淡い彩色である。指と爪で描けたところで仕事を終えず、一幅の絵として何を加えるかを考えている。大胆な描き方のなかに、仕上げを選ぶ画家の目がある。
高さ96センチの山水は、墨だけでは終わらなかった。
出典
- メトロポリタン美術館「指墨山水図」(1975.268.93)
- ミネアポリス美術館「Finger Painting, from an album of ten」(99.176.1)
- 京都国立博物館「指頭画―指で描かれた絵―」、1999年
- 京都国立博物館「池大雅 天衣無縫の旅の画家」展、2018年
- 千葉市美術館「柳渓渡渉図」作品解説
- コトバンク「池大雅」「指頭画」「高其佩」「席画」
注
- メトロポリタン美術館の《指墨山水図》は、年代欄が「ca. 1730s」(1730年代頃)で、大雅が指墨画を始めたのは20代とする解説と合わない。本文では年を書いていない。
- 『指頭画説』の著者は、京都国立博物館と多くの事典が高其佩の従孫の高秉とし、世界大百科事典は高其佩自身とする。
- 高其佩の生年は1660年とする資料と、1672年とする資料がある。
この記事に出てくる作家

池大雅
Ike no Taiga
1723–1776
高其佩
Gao Qipei
1660–1734
