撥はなぜ弦のあいだにあるのか

日本画家の橋本関雪が《琵琶行》に描いた撥には、弦を鳴らすほかに、いまが物語のどの場面かを教える役目がある。手がかりは、絵のもとになった詩にある。唐の詩人・白居易の長い詩「琵琶行」である。

「沉吟放撥插絃中」

曲を終えた女が、思いに沈みながら撥を弦のあいだに挟むくだりだ。そのあと女は衣服を整え、自分の身の上を語りだす。

橋本関雪《琵琶行》左隻(部分、琵琶と撥)
橋本関雪《琵琶行》左隻(部分、琵琶と撥)

関雪の屏風を、この詩句と重ねてみる。撥の置き場所から、女はいま曲を終えて、話をするところだと読める。琵琶を弾く女を歌った詩の題を付けながら、関雪が選んだのは演奏の最中ではなさそうだ。

ただ、これで音楽が終わるわけでもない。詩のなかで女は、招かれた席で2度弾く。1度目の演奏と2度目の演奏のあいだに、女の話と、それを聞いた詩人の言葉が入る。関雪の屏風は、その「あいだ」を描いていると読める。

舞台は816年、秋の夜の中国。白居易は前年、都から九江へ左遷されていた。宰相の暗殺事件について意見を述べたことが越権行為として責められ、以前から彼をよく思わない有力者たちの反感も重なった。

その白居易が、川辺で客を見送ろうとしている。水上から琵琶が聞こえてきた。誰が弾いているのかと尋ねると、音が止む。白居易たちは舟を寄せ、酒を添え、あらためて宴を開く。幾度も呼びかけられて、ようやく女が姿を現す。

見知らぬ男たちの前で、彼女はまず琵琶を弾いた。身の上を話すのは、そのあとである。

詩は、その1曲目の演奏を細かく描く。途中でふと音が途切れたときには、「此時無聲勝有聲」とまでいう。音のないこのときが、音のあるときに勝る。

これは、曲を終えて撥を置く場面とは別である。奏者が曲の途中でつくる休止と、弾き終えて自分の話をする時間とでは、どちらも琵琶は鳴らないが、そこで起こっていることが違う。

落ちぶれた者同士に、面識はいらない

女は、かつて都の長安で名を知られた奏者だった。詩のなかでは、13歳で琵琶を身につけ、その腕前で世に知られたと語る。

やがて年を重ね、商人の妻になった。夫は商売を重んじ、別れを気にかけない。先月、茶の買い付けに出かけ、女は河口の舟に取り残されている。夜更けには若いころの夢を見て、夢のなかで泣く。

この話を聞いた白居易は、女と自分の境遇を重ねる。

「同是天涯淪落人、相逢何必曾相識」

意味をとれば、ともに遠い土地へ落ちぶれてきた身ではないか、出会うのに昔からの知り合いである必要などない、となる。都で働いた官人と、都で喝采を受けた奏者。別々の道をたどった2人が、川の上で、同じく落ちぶれた身として出会う。

橋本関雪
琵琶行
1910 絹本着色/六曲一双屏風 147.3 × 334.9 cm

この作品は、6枚つなぎの屏風を2つで1組にする「六曲一双」である。左隻(左の屏風)で女の話を聞く2人は、白居易とその友人。右隻(右の屏風)にいる老人は、白居易を乗せてきた舟の舟守だ。関雪は、女と詩人のほかに、出会いの場へ白居易を運んできた舟とその舟守にも、屏風の片方を割いている。

舟と舟のあいだに置かれた広い水辺を、話を聞く時間の長さとしても眺めたくなる。女のこれまでの暮らしは、ひと言では話し終わらない。

詩の白居易は、女の演奏を「琵琶語」と呼ぶ。琵琶による語り。もう一曲聞かせてほしい、自分はあなたのために詩を書こう、と頼む。

女はその頼みに心を動かされ、再び弾く。今度の音は、先ほどの軽やかな調子ではなく、沈痛だった。居合わせた者はみな袖をしぼり、なかでもいちばん多く泣いたのは白居易だった。詩は、彼の衣が涙に濡れたところで終わる。

関雪が描いた女を、身の不幸を嘆く人として見るだけでは、この先の1曲を取り逃がす。彼女は自分で身の上を語り、それを聞いた白居易に頼まれて、もう一度奏者に戻る。

儒学者なのに、翻訳を読めと勧める

漢詩の一句から、絵の一場面を選び取る。関雪にとって、それは幼いころの暮らしにつながっていた。

関雪は1883年、神戸に生まれた。父の橋本海関は、かつて明石藩に仕えた儒学者だった。海関は漢詩や書画に通じていた。その家には、中国の学者や政治に関わる人、日本の古物を研究する西洋人などが訪ねてきた。

けれども関雪の回想によれば、父は子どもの教育に熱心に口を出す人ではなかった。関雪のほうから、本を声に出して読む素読を教えてほしいと頼むと、父はこう言いながら教えた。

「今時こんな六ツかしい本を讀まずとも飜譯したものも澤山あるから、それを讀む方が捷徑だ」

難しい原文を読むより、翻訳を読んだほうが早い。それでも後年の関雪は、自分に最も大きな示唆を与えたのは父だったと書く。

少年の関雪は、神戸の家に出入りする中国人から、詩句を絵にする課題を出されたこともある。「萬綠叢中一點紅」。緑の茂みのなかに、ひとつだけ赤いものがある。関雪は、竹やぶに柿の実が1つ残っている絵を描いたと思う、と回想している。

一方、絵の手ほどきを受けたのは、神戸の画家・片岡公曠だった。毎日の稽古では椿や梅の枝の手本を習い、古い画家たちの下絵を丹念に写した。初冬の夕方、寺の門のそばの茶の花に見とれたこともある。初めて写生をしたのも茶の花だったと思う、と書いている。のちには京都の日本画家・竹内栖鳳のもとでも学ぶ。

詩から一場面を思いつくことも、目の前の花を描くことも、関雪は少年時代から経験していた。

絵が売れても、絹地代がやっとだった

この長い詩を描いた屏風は、1910年の第4回文展に出品された。

文展は、文部省が1907年に始めた美術展覧会である。各流派の画家が作品を持ち寄り、同じ会場で評価を受ける場として設けられた。日本画・西洋画・彫刻の3部門があり、出品作を鑑査して展示を決め、賞や買い上げの対象を選んだ。主催が文部省から帝国美術院に移った帝展などを経て、戦後の日展につながる。

文展での関雪の出発は、落選である。第1回文展に向けて郷里で大きな作品を仕上げ、勇んで東京へ持っていったが、選ばれなかった。

当時の関雪には妻子があり、生活を支えなければならなかった。後年の『関雪随筆』には、出品した絵を売っても絹地代を得るのがやっとだったとある。次の出品の季節に絹を買う金がなければ、自分や妻の物をまとめて質屋へ運んだ。

《琵琶行》も絹に描かれている。屏風に残っているのは、詩から何を選んだかである。けれども当時の画家には、出品のたびに絹地代をどう工面するかという問題もあった。

関雪は第2回から入選を続け、第3回には《失意》で褒状を受けた。この絵も、唐の詩をもとにしている。

題材は、唐の詩人・杜甫の「江南逢李亀年」。かつて宮中で名を馳せた音楽家・李亀年と、江南で再会する詩だ。昔は、玄宗の弟・岐王の屋敷などで、その演奏をたびたび聞いた。いま、花の散る季節に、遠い土地で再び出会う。

翌年の《琵琶行》も、都で名を知られた音楽家に、遠い土地で詩人が出会う詩を描いている。関雪は2年続けて、この取り合わせを文展へ送った。

1910年の第4回文展では、日本画469点が搬入され、鑑査を経て展示を許されたのは60点だった。日本画の賞は、二等賞が2点、三等賞が10点、褒状が21点。《琵琶行》は、その褒状の1つである。関雪は自分の歩みを「三回からは毎會褒狀又は賞をうけることになつた」と振り返った。

川辺で交わされる私的な話が、展覧会場に出て、さらに絵葉書という小さな印刷物になった。1934年に出た国語教科書の手引き『現代実業国語読本教授参考書』は、白居易の「琵琶行」の課の挿画を「琵琶行 橋本關雪筆」と記している。詩から生まれた絵が、今度は詩を読むための挿画になった。

「水の色靑しと思へるは我が國人の幸福なり」

1910年の《琵琶行》は、関雪が初めて中国を旅するより前の作品だった。

幼いころから中国の書物と人に親しんでいても、詩に出てくる土地を歩いた経験は、あとから加わる。やがて関雪はたびたび中国へ渡り、揚子江を遡り、三峡を通った。

1925年の『関雪随筆』には、九江に長く暮らす人から、一夜で川の水かさが40尺も増したと聞いた話がある。九江は、白居易が流された土地である。関雪は初め、信じなかった。ところが、のちに三峡で泊まったとき、その話が嘘ではないと知った、と書いている。

雨期の水勢は、日本人には想像もできないほどだと書き、川の色についてもこう述べる。

「水の色靑しと思へるは我が國人の幸福なり」

三峡の水は黄色く濁っていた。関雪は、三峡の水勢をめぐる白居易の言葉「常に畏る不才の身。無名の死をなさむことを」を引き、「同感すべきなり」と書く。旅先の経験を、また詩に戻して考えている。

関雪は現地で写生を重ねた。明末清初の文人画家に傾倒しながら、四条派の写実にもとづいて描いた仕事は、「新南画」と呼ばれる。

ところが、その関雪自身が、流行する新南画を批判している。「一足とびの枯淡」と書く。同じ文で関雪は、蘇東坡の「平淡は實に絢爛の極に非ずや」を引く。絢爛を経ずに、枯淡だけを装うことへの反発と読める。1924年の『南画への道程』でも、わざと稚拙さをまねた絵や、一夜づくりの気ままさをひけらかす絵を批判した。

同じ本で関雪は、柿の実の話に続けて、その後も「意匠を一つの工夫として」扱った時代があったと告白し、「何と云ふ愚かしきことであらう」と書いた。少年時代に柿の実を描いた画家は、実際の川に驚き、自分の絵の考え方も問い直していた。

音で語り尽くしても、まだ話がある

関雪は1925年、白居易を愛する理由を書き残した。白楽天という呼び名で、こう述べている。

「私の樂天を愛するようになつたのは、決して措辭の巧妙ではない、アノ詩集を通じて見た、自然兒であり、人間味の豐かさである」

言葉を巧みに組み立てる技より、詩集を通して出会った人間に惹かれた。《琵琶行》を描いてから15年後の言葉だが、この屏風へ戻るには、よい道案内になる。

撥を詩句どおりの場所に置く。それだけなら、古典を知っている証拠にはなる。《琵琶行》でさらに気になるのは、その撥を使った人と、いま話を聞いている人の関係である。

関雪の屏風を、撥を置いて話す時間として読むと、撥の持ち主が、自分で語るために手を空けていることが大切に思えてくる。詩は、1曲目の音が女の「心中の限りない事ども」を語り尽くしたという。それでも女は、なお言葉で語り直す。女には、話す時間が要る。白居易にも、聞く時間が要る。

撥が再び手に取られるとき、白居易はもう、川の上から聞こえてきた見知らぬ音を聞く人ではない。その奏者がどこで学び、どんな喝采を浴び、なぜいま舟に独りでいるのかを知っている。

次の曲でいちばん泣く人は、いま、彼女の話を聞いている。

出典

注

  • 白居易と杜甫の詩は、維基文庫の本文による。日本語の大意は『現代実業国語読本教授参考書』と『李杜評釈』を参考にした。
  • 関雪の文は、国立国会図書館デジタルコレクションの頁の画像で確かめ、もとの字のまま引いた。
  • 初めての中国旅行の年は、関雪自身は大正元年(1912年)と書き、日本アーティスト事典は1913年とする。
  • 図版は、白沙村荘 橋本関雪記念館の所蔵品の画像(Google Art Project)による。部分図は、その画像から切り出した。

Images

  • 橋本関雪《琵琶行》 — Public domain / 白沙村荘 橋本関雪記念館(2018年に DIC川村記念美術館から収蔵)。画像は Google Art Project(Wikimedia Commons 経由)Source

この記事に出てくる作家

橋本関雪

Hashimoto Kansetsu

1883–1945

片

片岡公曠

Kataoka Kōkō

竹内栖鳳

Takeuchi Seihō

1864–1942