壊れた楽器を、女性に持たせる

明治の洋画家・藤島武二が《天平の面影》で女性に持たせた楽器は、正倉院では壊れた部材として残っている。箜篌(くご)という、ハープの仲間の弦楽器だ。

藤島がこの油彩画を描いたのは1902年。箜篌が使われていた天平時代の奈良から、1100年以上が過ぎていた。同じ年の秋、洋画家の団体・白馬会の展覧会で発表された。

藤島武二
天平の面影
1902 油彩・カンヴァス 197.5 × 94 cm

現在は東京のアーティゾン美術館が所蔵する。高さは約2メートル、幅94センチ。女性像の画面としては、かなり大きい。

あの楽器は何か、と手元に目を留めると、話は絵の外へ長くさかのぼる。正倉院に残った部材、その姿を明治に作り直した楽器。その先に、藤島が描いた女性がいる。この絵の天平は、残されたものを手がかりに、明治の画家が組み立てた古代なのだ。

奈良で出会った箜篌

制作の前年、1901年に藤島は奈良を訪れていた。古い絵や仏像を見て回り、箜篌に出会ったことが制作のきっかけになった。その経緯は、白馬会展を評した1902年10月13日の『読売新聞』の記事に、藤島の談話として載っている。

談話の中で藤島が関心を向けたのは、楽器そのものだけではなかった。隋や唐との行き来が盛んで、日本の文物や制度が大陸の風にならっていた時代のありさまを絵に表そうとした、と記事は伝える。箜篌は、そのつながりを女性の手に持たせられる品だった。

ただし、藤島が奈良で何を見たのかについては、言い分が分かれる。藤島自身は正倉院の箜篌を見たと語った。一方、新潟県立近代美術館の学芸員・長嶋圭哉や、学芸員の中田裕子は、藤島が目にしたのは明治に作られた模造だったとする。正倉院にある古代の箜篌と、明治に姿をよみがえらせた箜篌は、同じ物ではない。

なぜ、模造が必要だったのか。

正倉院の箜篌は大破し、全体の形が失われていた。明治の修理記録には、古い図の中に描かれた楽器から姿を推し、参考のために模造したという趣旨の記述がある。残った部材だけで足りないところを、昔の絵が補ったのである。当時、正倉院の宝物は宮内省のもとで、整理、修理、模造が盛んに行われていた。

正倉院の宝物を管理する宮内庁の正倉院事務所には、1894年と1895年に作られた箜篌の模造が伝わる。1895年の1張は、宝物の保存整理に携わった稲生真履の作である。藤島が見たのがどれかは分からないが、絵に先立って楽器の姿を取り戻す仕事が進んでいたことは確かである。

昔の絵を頼りに楽器が作られ、その楽器がまた新しい絵の手がかりになった。《天平の面影》の女性が抱える箜篌には、その往復がある。

桐の花の下に、仏像の姿を借りる

箜篌から始まった構想に、藤島はほかの古い美術を加えていった。先の『読売新聞』の記事には、藤島が女性を描くのに参照したものが挙がっている。浄瑠璃寺の吉祥天や、正倉院の樹下美人などである。

樹下美人は、正倉院に伝わる《鳥毛立女屏風》のこと。木の下に女性を配した8世紀の屏風だ。木の下に人を立たせる《天平の面影》の組み立ても、この屏風に似ていると指摘されている。

《鳥毛立女屏風》第1扇(8世紀、正倉院宝物)。図版は宮内省編『東瀛珠光』第1輯(1924年)による(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
《鳥毛立女屏風》第1扇(8世紀、正倉院宝物)。図版は宮内省編『東瀛珠光』第1輯(1924年)による(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

女性の頭上の木には、桐の花が咲いている。藤島の画稿集には、桐の花を水彩で描いた下絵が残っている。中田は1983年の研究報告で、これを《天平の面影》のための下絵と考えた。楽器の古さに合わせて、それらしい背景を添えただけではない。花も写してから、画面に持ち込んでいた。

記事に挙がった吉祥天は、仏教の女神である。京都の浄瑠璃寺にある《吉祥天立像》は、鎌倉時代、13世紀の作品だ。

《吉祥天立像》(鎌倉時代、浄瑠璃寺)。図版は1927〜29年刊の美術全集(光村)による(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
《吉祥天立像》(鎌倉時代、浄瑠璃寺)。図版は1927〜29年刊の美術全集(光村)による(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

天平の女性を描くのに、鎌倉時代の像を参考にする。時代が合わないではないか、とも思える。だが、先の記事は、天平時代の宮中の服装を取り入れて彫ったという説のある像として、浄瑠璃寺の吉祥天を挙げている。

ここにあるのは、古い衣服を1着見つけ、そのまま着せる仕事とは違う。彫刻に残った衣装から、さらに古い時代へさかのぼる試みである。藤島の女性像には、古代から残った物と、後の時代の像に受け継がれた古代の姿が、ともに使われている。

金色の背景に、古い時代を置く

桐の花や衣装には、調べた跡がある。では、女性の背後を占める金色は、どこから来るのだろう。

藤島が表そうとしたのは、大陸の風にならった時代のありさまだった。金色の背景のもとでは、女性はいつのどこにいるとも決まらない。その構想に合った背景だと読める。

美術史家の陰里鐵郎は、《天平の面影》を、当時「理想画」と呼ばれた作品の流れに置いている。黒田清輝が日本に根づかせようとしたといわれる、人体を主とした構成画である。

箜篌や衣装は、天平へ向かう具体的な手がかりになる。金色の背景は、その女性をどの場所にも置かない。資料をもとにした品と、場所を定めない背景。古い品を確かに描くことと、遠い過去を夢見ることが、ここでは一枚の絵に収まっている。

片脚で立つ姿は、古代ギリシアから

もう一つの古代は、女性の体にある。

女性自身の右脚で体重を支え、左脚を自由にする立ち方は、古代ギリシアの人体表現に由来する。コントラポストと呼ばれる姿勢だ。左右の脚に異なる役割を与え、そこから全身の釣り合いを作る。

奈良の楽器や衣装を選びながら、立ち姿にはギリシアの古代を重ねる。藤島は、同じ女性の中で、二つの古代を出会わせた。箜篌を持つ人の体には、西洋の人体表現を学んだ洋画家の仕事が入っている。

しかも、この絵を描いたとき、藤島はまだヨーロッパへ留学していなかった。渡欧するのは1905年である。《天平の面影》の3年後になる。日本で西洋画を教えながら、奈良の古い美術へ目を向けていた時期に、この女性像は生まれた。

日本の題材を西洋の技法で描いた、と言うだけでは足りない。油絵という技法だけでなく、人体の立たせ方にも、もう一つの古代が入っている。女性を囲む品々だけを調べても、この絵の古代は尽くせない。

白馬会の会場から、詩の中へ

《天平の面影》が発表されたのは、1902年の第7回白馬会展だった。白馬会は、当時の洋画家たちが作品を発表した団体で、藤島も創立の1896年から加わっていた。

この女性像には、当初、対になるもう1枚を伴う構想があった。だが、相手となる絵は完成作として確認されていない。3年後の1905年、第10回白馬会展に再び出たときも、この1点だけだった。

藤島はこのころ、詩歌の雑誌『明星』の表紙や挿絵も手がけていた。展覧会場にも、雑誌のページにも絵を出していた画家に、文学の側から応答があった。

詩人の蒲原有明は、この絵を題材にした詩を『明星』に発表した。後に詩集『独絃哀歌』に収められた詩には、こんな呼びかけがある。

「いざ君かなでよ」

呼びかけられているのは、箜篌を抱える女性である。蒲原は、絵の中の楽器に音を求めた。詩集では題に「藤島武二氏筆」と添えられ、絵に寄せた詩であることがわかる。

古代の女性像を考証の成果として受け取るだけでは、この呼びかけは出てこない。箜篌を再び作った人々が形を取り戻そうとしたのに対し、詩人はその箜篌に、音まで求めた。

箜篌を、もう一度手元で見る

箜篌は、この女性を描く出発点だった。

古代から残った部材は、箜篌が実際にあったことを伝える。明治の模造は、失われた全体を資料から推して形にする。藤島はそこから、誰が持ち、何を着て、どう立つかを選んで、一人の女性を描いた。

今年(2026年)の夏、奈良国立博物館の特別展「南都仏画」で、1895年の箜篌の模造と《天平の面影》は、同じ「よみがえる奈良・天平の美」の章に出品された。楽器を再び作る仕事と、楽器を持つ女性を描く仕事が、同じ章に並んだのである。

正倉院では部材となった箜篌が、ここでは人に抱えられている。その形を明治の模造が取り戻し、その人の姿を藤島が描き、詩人が音を待った。

出典

注

  • 中田裕子は、1902年の出品作には署名があり現存作には無いことから、現存作は1905年ごろの別の作である可能性も挙げている(断定はしていない)。所蔵館と文化庁は1902年の作とする。
  • 1902年の出品時の題は、「天平時代の面影」とする資料と「天平時代の婦人像」とする資料がある。
  • 寸法 198.5×94 センチは、1983年の藤島武二展の出品目録による。
  • 2026年の「南都仏画」展で《天平の面影》が出たのは前期(7月18日〜8月16日)。箜篌の模造は全期間の展示。

Images

  • 藤島武二《天平の面影》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource

この記事に出てくる作家

藤島武二

Fujishima Takeji

1867–1943

黒田清輝

Kuroda Seiki

1866–1924