
Artist profile

線を引きすぎない――菊池契月(1879〜1955)の人物画を前にすると、まずそのことに気づく。輪郭は淡く、筆数は切り詰められ、女性の頬や衣の襞は語りきらぬまま余白に溶けてゆく。近代京都画壇にあって、四条派の柔らかな写生を、削ぎ落とした線描の気品へと磨き上げた日本画家である。本名は完爾。長野県中野町(現・中野市)の細野勝太郎の次男として生まれた。 画への道は南画から始まる。1892年、十三歳で同郷の児玉果亭に入門し、「契月」の号を授かった。1896年、京都に出て内海吉堂の門を叩く。だが吉堂は、この少年の資質が南画には収まりきらぬと見抜き、四条派の菊池芳文のもとへ推した――この目利きが契月の生涯を決めた。芳文の塾で腕を伸ばし、1906年には師の娘あきと結ばれて菊池家の婿養子となり、以後この姓を名乗る。 はじめは歴史画に筆を執ったが、契月を契月たらしめたのは、その後に深めた人物画である。強い線で形をかたどる代わりに、線をあえて抑え、輪郭の緊張をゆるめる。そうして女性像に、声高でない静かな品格を通わせた。《供燈》(1910)、《鉄漿蜻蛉》(1913)、《立女》(1924)、《南波照間》(1928)、《朱唇》、《涅歯》(1933)――清澄で余白の多いその画面は、画歴を一本の線のように貫いている。1922年から一年ほど英・仏・伊を巡り、ルネサンスのフレスコ画に触れた経験も、この簡潔さと無縁ではあるまい。壁面に定着した明快な人体像が、彼のなかの「引き算」を後押ししたと見てよい。 1898年の第4回新古美術品展で褒状一等を得たのを皮切りに、文展で受賞を重ねて1918年には審査員となり、同年、京都市立絵画専門学校の教授にも就いた。みずから菊池塾を主宰して後進を育て、1934年に帝室技芸員、1937年に帝国芸術院会員へと登りつめる。1950年に京都市立美術大学名誉教授、1954年に京都市名誉市民に推され、翌年、暮らし抜いた京都で世を去った。東京富士美術館、ひろしま美術館などに、その静かな線が残されている。
View full profile