
歌川芳艶
嘉永の末(1850年代の初め)の江戸では、歌川芳艶と歌川国輝が競って描いた刺青の下絵が「芳艶の児雷也、国輝の狐忠信」ともてはやされた。芳艶は「武者絵の国芳」とうたわれた歌川国芳の門人で、自身も武者絵を得意とした。浅草奥山の生き人形の看板絵や、髪結床に掛ける長暖簾でも知られる。
文政5年(1822年)、江戸の本町二丁目で「十ノ字」と呼ばれた駕籠屋に生まれた。姓は甲胡、通称は万吉。号は一栄斎から一英斎へと改めた。国芳に入門し、天保13年(1842年)には絵入りの読み物の挿絵を描いている。弘化年間(1844〜48年)に一度破門されたが、間もなく許された。
評判の絵師を並べた番付では、肩書ははじめ「武者」だった。安政6年(1859年)春ごろの番付では、浮世絵師十人に一人ずつ肩書を付けるなか、ほかの絵師を「武者」と呼び、芳艶を「豪傑」とした。文久元年(1861年)の番付には、「大看板」の描き手としても名が載る。長暖簾の武者絵については、昭和の初めに樋口二葉が『浮世絵と板画の研究』で、芳艶がほとんど専門にしていたと書き、「何人も芳艶の暖簾には太刀打が出来なかったさうである」と評した。
芳艶は、町の顔役ともつながっていた。三代豊国の門人豊原国周が後年語ったところでは、国周が役者の似顔で描いた喧嘩の絵をめぐり、浅草の大親分・新門辰五郎の子分たちが、負けて逃げる姿を描かれたと怒った。国周と師匠の家を打ちこわしに来る騒ぎになると、新門の子分だった芳艶が仲裁に入り、和解に導いたという。
文久3年(1863年)には、将軍徳川家茂の上洛を東海道の名所に描いた160枚を超えるシリーズ「東海道名所風景」に、門人の艶長とともに加わった。御上洛東海道 四日市もその一枚である。慶応2年(1866年)5月には、町奉行が十人ほどの絵師に異国へ送る美人画を描かせた。翌年のパリ万国博覧会に出す画帖のためとみられる。芳艶は同年6月22日、45歳で没した。
明治24年(1891年)の『読売新聞』は、国芳の門人で名を轟かせたのは芳艶だとし、その絵は「五月人形に類す」と言われながら、大がかりな仕事で後進の絵師たちを驚かせたと書いた。明治30年(1897年)の同紙は、異国へ送る美人画で好評だったのは芳艶と月岡芳年で、「特に芳艶は最も出群なりし」と伝える。同じ記事によれば、芳艶も国輝も世を去ったいま、二人の児雷也と狐忠信は、年寄りの背中にかすかに残るだけだという。
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