歌川芳宗
初代歌川芳宗(1817〜1880)は、師の歌川国芳の作品で、使う色を指定する「色差し」をした浮世絵師である。十数度も破門されながら、そのたびに国芳のもとへ戻ったと伝わる。
父は大工職の林忠蔵で、芳宗自身は鹿島の姓を名のった。通称は松五郎。天保6年(1835年)、19歳で国芳に入門し、まもなく芳宗の画名と一松斎の号を与えられた。ひょうきんなところがあったといわれる。師弟の関係は国芳の晩年まで続いたという。国芳が浅草寺に奉納した絵馬の裏面にも、芳宗の名が記されている。
芳宗の作品は多くない。武者絵や役者絵、美人画を描き、三枚の版画を横につないだ絵も手がけた。版画のほかには、鞍馬山の大僧正と牛若丸を描いた肉筆の絵馬を、虎ノ門の琴平神社に奉納している。井上和雄編の『浮世絵師伝』(1931年)には、この絵馬が当時も残っていたとある。
文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の京都行きを題材にしたシリーズ「東海道名所風景」に参加した。将軍の上洛は約230年ぶり。16人の絵師が名所の浮世絵を通じて、この大きな出来事を伝えた。東海道之内 江戸尾張丁もその一枚で、題の尾張町はいまの銀座の一部にあたる。芳宗が住んだ銀座二丁目も、同じ東海道の通り沿いにある。このシリーズでは、江戸の東海道 本芝札ノ辻や京の東海道 洛中三條ノ大橋も描いている。
慶応2年(1866年)には、翌年のパリ万国博覧会に出品する画帖の制作に加わった。幕府が集めた浮世絵師は11人。芳宗は、同じ歌川派の歌川貞秀とともに、仲間を代表する「総代」を務めた。師の絵の色を指定した弟子が、今度は絵師たちを代表する立場になった。
子は11人おり、娘のしまは新橋の芸者「若菜屋島次」として名を知られた。芳宗は明治13年(1880年)、64歳で没した。誤って井戸に落ちたのが最期だったと伝わる。末子は月岡芳年に学び、父の没後に二代目芳宗を襲名した。一松斎の号も継いだが、明治の新聞挿絵で活動したのは、この二代目である。
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