歌川国春
歌川国春(1803〜1839)が役者から浮世絵師に転じたとき、父の歌舞伎役者・初代嵐冠十郎は、披露の摺物に「役者化して絵師となる」と書き添えた。国春は二代目歌川豊国に学び、役者絵を得意とした。
享和3年(1803年)、江戸で冠十郎の長男として生まれた。初めは嵐冠之助と名のり、子役のころから舞台に立った。
幼いころから絵を好み、芝居の合間にも絵筆をとっていた。文政7年(1824年)11月には、市村座の顔見世で二代目嵐徳三郎を襲名した。
しかし、生まれつき病が多く、長くは舞台に立てなかった。役者番付に名が見えるのは文政10年(1827年)の夏までで、翌年の春には歌川国春と名のって絵師になった。
披露の摺物は、師の二代目豊国が絵を描いた。国春は詞書に「豊国ぬしの机にすがりて」と記し、絵を教わって歌川の名を授かった喜びをつづっている。
文政12年(1829年)正月の大判錦絵「春情江都淑」には、「嵐徳三郎改国春画」と署名した。以前の役者名が、絵師となってからの署名にも残っている。
天保元年(1830年)8月には、江戸中村座の「妹背山婦女庭訓」の舞台を描いた。市川八百蔵の久我之助と瀬川菊之丞のひな鳥を、二枚続の錦絵にしている。
この五代目菊之丞は、天保3年(1832年)正月7日に31歳で没した。その10日ほど前には、三代目坂東三津五郎も世を去っていた。
国春は二人を一図に描いた死絵を出し、命日・法名・行年を書き添えた。死絵は、役者が亡くなった際に訃報と追善を兼ねて出された浮世絵である。図柄の違う2図が伝わり、死絵 三代目坂東三津五郎・五代目瀬川菊之丞はその一つにあたる。
父の冠十郎を描いた役者絵には、「山風亭国春画」の署名がある。大正4年(1915年)に国春の伝記を書いた斎藤ひろ麿によれば、号の「山風」は「嵐」から来たという。嵐の字は山と風から成る。役者名だけでなく、絵師の号にも嵐の字を分けて残したと読める。
桑原羊次郎の「浮世絵師人名辞書」によれば、国春が絵師として筆をとったのは十二年間だった。天保10年(1839年)、37歳で没し、三田の蓮乗寺に葬られた。
「俳優世々の接木」は「歌川国春といふて早々世をさる」と記す。父の冠十郎は、弘化3年(1846年)まで生きた。
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