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蹄斎北馬

蹄斎北馬

ていさい ほくばTeisai Hokuba
7 Artworks

貧しい御家人の家に生まれた男が、武家勤めの窮屈さを嫌って家督を弟に譲り、隠居の身で絵筆一本に賭けた——蹄斎北馬(1771〜1844)の出発点はそこにある。本姓は有坂、俗称を五郎八、諱を光隆といい、一説に星野氏とも伝わる。神田に住み、のち下谷三筋町から二長町へ移り、七十四の生涯を全うするまで一貫して市井の絵師であり続けた。蹄斎のほか駿々斎(駿々亭)と号し、葛飾北斎の門を叩いてその高弟に育った。

北馬の真骨頂は、肉筆の美人画にあった。「北斎門中、肉筆の作の多きは北馬に及ぶものなし」と評されたほどで、着色と衣装の描写の細やかさは師をも唸らせた。《桜下花魁の図》《浅妻舟》《三都美人図 江戸》《洲崎潮干狩の景》(いずれも太田記念美術館蔵)を見れば、S字にしなう姿態、柔らかな輪郭、冴えた配色が、そのまま画中の女の艶へと転じている。見立桃園三傑図《見立草盧三顧》のような古典への見立てを好み、ときに西洋風の遠近を風景に忍ばせた。文政九年(1826)頃からは、つり上がった目と突き出した下唇という歌川派を思わせる独特の相貌を獲得し、北馬らしさが立ち上がる。同じ武家出身の美人画家でも、渓斎英泉ほどアクは強くなく、上品な「武家好み」と称された所以である。

左手で描く曲画をよくしたのも北馬の異色で、右手は北斎のため、左手は谷文晁の仕事のためと使い分けたと伝わる。事実、文晁に愛されてその密画の助手を務めた。読本の挿絵でも筆をふるい、『石言遺響』『三国妖婦伝』『自来也説話』『平家物語図会』など数十部の口絵・挿絵を手がけ、曲亭馬琴や柳亭種彦、山東京山ら当代の戯作者と組んだ。狂歌摺物にも巧みで、文化人の集うサロンでの席画を得手とした。

北斎門下では魚屋北渓と並ぶ双璧とされ、文化十年(1813)の作者画工番付では大関歌川豊国、関脇歌川国貞に次ぐ小結に据えられた。晩年は土佐絵の趣を慕って師とは異なる画境へ進み、剃髪して静かに筆を置いた。一子が二世北馬を継ぎ、逸馬・遊馬らの門人がその画系を伝えた。

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