
中村不折
「新宿中村屋」の看板の文字は、洋画家で書家の中村不折が書いた。パリで歴史画を学び、中国の故事を題材に大作を描いた。
慶応2年(1866年)、江戸の京橋に生まれ、5歳で父の郷里の信州高遠に移った。飯田の小学校で教えていたころの教え子に、菱田春草がいる。明治20年(1887年)に上京し、十一字会研究所で小山正太郎と浅井忠に学んだ。
明治27年(1894年)、浅井の斡旋で新聞「小日本」に入り、挿絵を描いた。正岡子規とは、のちに新聞「日本」で同僚になった。
子規は不折らから洋画の写生を教わり、俳句の革新に生かしたとされる。ただ、写生への考え方は同じではなかった。棒杭しかない所に、不折が画面の調子を整えるために立札を描き足したと聞くと、子規は「自然をいつはるのは罪悪である」と強く言ったという。
明治28年(1895年)、子規とともに日清戦争の従軍記者として中国へ渡った。半年ほど中国と朝鮮半島を巡り、古い書の拓本や考古資料を目にして持ち帰った。書の研究に傾く最大のきっかけは、この従軍だった。
明治34年(1901年)にフランスへ渡り、アカデミー・ジュリアンで歴史画家ジャン=ポール・ローランスに人体表現を学んだ。明治37年(1904年)秋には画塾の競技で優勝した。
明治38年(1905年)に帰国し、太平洋画会に加わった。同年、夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」上編の挿絵を描く。漱石は序に「中村不折氏は數葉の挿畫をかいてくれた」と記し、表紙を手がけた橋口五葉とともに礼を述べている。
翌年から太平洋画会研究所で教え、中村彝らを育てた。
歴史画の大作《廓然無聖》は、『碧巌録』の公案を題材にした。仏法の真理とは何かと問う梁の武帝に、達磨が「廓然無聖」と答えた、その場面を描いたとみられる。大正3年(1914年)の東京大正博覧会と、翌年のサンフランシスコ万国博覧会に出品された。
書では、明治41年(1908年)の龍眠帖が「不折流」の始まりとなり、書道界を驚かせた。その字は看板や商品のラベルに好んで使われた。森鷗外の墓に刻まれた「森林太郎墓」も、不折の字である。
大正8年(1919年)に帝国美術院会員となり、太平洋美術学校の校長も務めた。昭和11年(1936年)、根岸の自宅に書道博物館を開いた。40年あまりで集めた資料も建物の費用も、絵や書の報酬でまかなった。昭和18年(1943年)6月6日、下谷区の自邸で没した。
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