
清原雪信
清原雪信は江戸時代前期の狩野派の女性絵師で、名を雪という。狩野探幽の姪孫にあたり、江戸時代には狩野派随一の女性画家として知られた。
井原西鶴の「好色一代男」には、雪信が秋の野を描いた白繻子の袷が、島原の太夫の衣装として登場する。刊行されたのは、雪信が没した天和2年(1682年)だった。
寛永20年(1643年)に生まれ、天和2年4月29日に40歳で没したと伝わる。ただし、生没年を不詳とする資料もある。
父の久隅守景は、探幽門下の四天王に数えられた絵師だった。だが、雪信が父から絵を習ったと確かめられる資料はほとんどなく、師となったのは母方の大叔父にあたる狩野探幽である。
美術史家の大平有希野は、雪信が母方の祖父で絵師の神足常庵のもと、京都周辺で育ったと推定している。常庵は京都にある探幽の屋敷で留守を預かっていた。
伊藤梅宇の随筆「見聞談叢」は、雪信が17、18歳のころ、探幽のもとへ毎日稽古に通ううちに、尼崎藩士の子・平野国清と通じたと伝える。母に強く叱られて家を出た雪信は、絵で生計を立て、のちに大いに繁盛して尼崎で没したという。嫁ぎ先や住んだ土地は記録によって食い違う。
作品には、いつも「清原氏女雪信筆」と署名した。清原は嫁ぎ先の姓とする説もあったが、大平は家系の資料から、母方の祖父の家である神足家の本姓だったと確かめている。
雪信は源氏物語や小野小町など、日本の古典文芸に関わる人物画を多く描いた。大平はその背景に、女性画家には「和」の領域が求められていた事情を読み取っている。
画題は日本の古典でも、描き方は探幽に倣った。20代後半に描いた《女房三十六人歌合画帖》の顔も、歌仙絵を多く手がけた土佐派ではなく、探幽の流儀で描かれている。
花鳥画では、受け継いだ型に手を加えた。緋連雀桜竹図では、探幽周辺の花鳥図をもとに鳥や花、岩の表現を変え、大和絵の趣を強めている。大平は、余白の緊迫感や、背筋を伸ばして凛とたたずむ人物を雪信の画の特徴に挙げる。
浄瑠璃や歌舞伎には、雪信をモデルにした「雪姫」が登場する。その人気を映すように贋作も多い。2023年の報道では、米国のデンバー美術館にある雪信の絵は、贋作が13点、本物は1点だけだった。大平が各地の作品を調べた博士論文では、確実な真筆として14点が挙げられている。
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