
フリーダ・カーロ
18歳のとき、乗っていたバスが路面電車と衝突した。鉄の手すりが腰を貫き、脊椎と骨盤を砕く大怪我だった。医学生を目指していた少女は、以後生涯続く痛みと三十数回の手術、そしてベッドの上での絵筆を手に入れる。天井に鏡を取り付けさせ、動けない自分の姿を描き続けたのが画家フリーダ・カーロの出発点だった。
生家はコヨアカンの「青い家」、通称カサ・アスール。父はドイツ系の写真家で、幼いフリーダはポリオを患い右脚が不自由になっている。事故後に本格的に絵を学び、壁画家ディエゴ・リベラに作品を見せたことから二人は結婚する。年齢も体格も正反対の二人の結婚生活は、互いの不倫やリベラの妹との関係、離婚と再婚を経て、常に嵐のようだった。トロツキーとの短い関係も、その激情の一部にすぎない。
描いたのはほとんどが自画像だ。つながった太い眉、テワナ地方の民族衣装、猿やオウムを傍らに置いた肖像には、メキシコの民間信仰やレタブロ(奉納画)の直截な描写法が息づいている。《二人のフリーダ》では自らを二つに分裂させ、ヨーロッパ風とメキシコ先住民風の心臓をむき出しの血管でつなぎ、《折れた背骨》では体を鉄の柱に置き換えて痛みそのものを絵にした。デトロイトでの流産を描いた《ヘンリー・フォード病院》のように、女性の身体と痛みを飾らずに直視する画面は、当時としては異例だった。
渡仏した際、アンドレ・ブルトンは彼女をシュルレアリスムの同志として歓迎し、ルーヴル美術館は彼女の作品を買い上げた。存命のメキシコ人画家として初めての快挙だったが、当のフリーダは「私は夢を描いたことは一度もない、自分の現実を描いただけ」と、その分類をにべもなく退けている。
1953年、メキシコ市で開かれた初の個展に、彼女は寝台ごと運ばれて出席した。右脚を切断した直後で、歩くことすらできなかったからだ。翌年、47歳で世を去る。死の間際の日記には「この出口が幸せなものでありますように、そして二度と戻ってきませんように」と記されていた。
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