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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー

Ernst Ludwig Kirchner
11 Artworks

ドイツ表現主義の画家キルヒナーは、羽根飾りの娼婦が行き交うベルリンの街頭風景で知られる。人であふれる街を描いた当時、本人は深い孤独を感じていた。

18歳のとき、修学旅行で訪れたニュルンベルクの博物館で古い木版画の版木とデューラーの作品を見て、画家になると決めた。のちに本人は、この体験からドイツ美術を新しくするという目標が定まったと振り返っている。

父が美術学校への進学に反対したため、ドレスデンで建築を学んだが、建築家にはならなかった。1905年、建築を学ぶ仲間と四人で芸術家集団「ブリュッケ」を結成する。名はドイツ語で「橋」の意味で、ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節からとする説がある。

もと肉屋だったキルヒナーのアトリエでは、知人に裸婦のモデルを頼み、15分ごとにポーズを変えて素早く描いた。1906年にはグループの綱領を書き、木版で刷った。ニュルンベルクで版木を見た青年が、今度は自分たちの考えを版に刻んだ。線と広い平面で組む画面、とくに版画には、ドイツ中世の木版画と日本の浮世絵版画の影響が見えるとされる。

1911年にはベルリンへ移った。1913年からは街路の娼婦と客を主題に、油彩、木版画、エッチング、リトグラフで連作を制作する。ベルリンの街頭風景もフリードリヒ通り、ベルリンも、この連作の油彩である。本人はこの時期を人生でもとりわけ孤独だった頃とし、人と馬車でいっぱいの通りを、不安のなかで昼も夜も歩き回ったと記している。

第一次世界大戦では志願して砲兵隊に入ったが、数か月で神経を病み、除隊した。1915年の兵士としての自画像では、軍服姿の自分を、絵を描く右手が切り落とされた姿で描いている。実際には手を失っていない。療養を経てスイスのダヴォスに暮らし、アルプスの山や農民の生活を描くようになった。

1920年代には「ルイ・ド・マルサル」という偽名で、自作を論じる批評も書いた。作品の評判を批評家に委ねたくなかったのである。

1937年、ドイツの美術館から作品639点がナチスに押収され、32点が「退廃芸術」展に並んだ。兵士としての自画像も「兵士と娼婦」と題を変えて掛けられた。翌1938年6月、ダヴォス近郊フラウエンキルヒの自宅の前で、拳銃で自ら命を絶った。58歳だった。40年に満たない制作期間に残した版画は2,000点を超え、そのほとんどすべてを自分で刷っていた。

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