
シャルル=フランソワ・ドービニー
寝床まで備えた小舟が、シャルル=フランソワ・ドービニー(1817–1878)のアトリエだった。フランスの風景画家で、バルビゾン派の中でも印象派に最も大きな影響を与えたとされる。
1857年からは「ボタン号」と呼ばれたその舟で、オワーズ川やセーヌ川を旅した。岸を歩いていては間に合わない朝夕の光も、舟ならその場で待てる。川の光を描くうちに、絵の色はしだいに明るくなった。
オワーズ川に近い土地には、幼いころから愛着があった。パリで生まれたドービニーは、乳母に預けられ、川辺の村ヴァルモンドワで数年を過ごした。最初に絵を教えたのは、風景画家の父だった。
17歳で友人とイタリアを旅した。帰国後は挿絵や版画を作り、ルーヴル美術館で絵を修復するなど、さまざまな仕事で暮らしを立てた。
1838年、パリの公式の美術展「サロン」に初めて出品した。その後も長く挿絵と版画の仕事を続けたが、1848年にサロンでメダルを受けると風景画が売れはじめ、各地へ描きに行けるようになった。
麦の刈り入れを描いたMoissonは1852年のサロンに出品され、翌年、国が買い上げた。1859年には、オワーズ川の岸を描いたLes bords de l'Oiseが評判を呼ぶ。以後、生涯にわたって同じ川の景色を注文されるようになった。
展覧会に出すために丁寧に仕上げた絵とは別に、ドービニーは戸外で手早く描く習作も作った。若い印象派の画家たちがひかれたのは、その自由な筆づかいだった。クロード・モネも早くからドービニーの絵を高く評価していた。
1870年、サロンの審査員だったドービニーは、モネの落選に抗議して審査員を辞めた。普仏戦争を避けてロンドンに渡ると、同じくロンドンに逃れていた画商デュラン=リュエルにモネを引き合わせた。モネの絵を買うよう勧め、売れなければ自分が引き取って自作と交換すると約束した。
晩年の1874年には、乳母の家をHouse of Mère Bazotに描いた。その家は、ごく初期のエッチングにも描いている。再び描いたとき、乳母はとうに亡くなっていた。
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