
アントニオ・フォンタネージ
明治9年(1876年)、イタリアの画家アントニオ・フォンタネージは、石膏像や画材を携えて日本へ来た。19世紀イタリアを代表する風景画家の一人で、日本では浅井忠や小山正太郎に西洋画を基礎から教えた。
北イタリアのレッジョ・エミリアに生まれ、地元の美術学校で学んだ。1848年にはイタリア独立戦争に志願兵として加わった。その後はスイスのジュネーヴに移り、街並みやレマン湖周辺の風景を石版画にした。
旅先で出会った絵からも学んだ。パリではコローらの風景画に触れ、ロンドンではターナーとコンスタブルの光の表現に強くひかれた。
1869年からはトリノの美術学校で風景画を教えた。教えるかたわら、自分でも一つの題材を描き重ね、1874年ごろには沼に沈む夕日を何度も描いている。
58歳で日本政府に招かれた。教壇に立ったのは、日本で最初の官立美術学校である工部美術学校だった。デッサンと油彩の基礎を教え、通訳を介してヨーロッパの画家たちの話もした。生徒には山本芳翠もいた。
日本でも風景を描き続けた。東京・上野の不忍池を描いた風景(不忍池)には、ヨーロッパで学んだ光の表現がうかがえる。紙に描いた夕陽(不忍池)の右下には、名前と並んで「Tokio」と書き入れてある。
生徒たちには「あの小さい木のかわいらしい姿が見えないかね。まるで花嫁のようじゃないか」と語りかけた。イタリアでも日本でも慕われ、教え子たちは先生を「紳士」「武士のよう」と言い残している。
病のため明治11年(1878年)に帰国するとき、生徒たちに「天然を師とせよ」という言葉を残した。後任の教師に不満を抱いた浅井や小山らは学校を去り、研究団体を結成した。
フォンタネージはトリノに戻り、教えながら風景画を描き続けた。1882年に世を去った。
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