寛政6年(1794年)の正月、芝神明前の版元(錦絵や本を出す店)和泉屋市兵衛から、役者の錦絵のシリーズが売り出された。題は《役者舞台之姿絵》。舞台に立つ人気役者を一人ずつ、頭から爪先まで描いた絵で、数えられているだけで40点を超える。

描いたのは26歳の歌川豊国。これが出世作になった。

同じ年の5月、日本橋の別の版元から、もう一つの役者絵のシリーズが出る。背景を黒雲母で塗りつぶし、役者の顔を大きく描いた大首絵が28枚。絵師の名は東洲斎写楽といった。

黒雲母の二十八枚

この年、写楽は豊国と役者絵を競った。だが10か月ほどで筆を折り、姿を消している。2019年に太田記念美術館が開いた豊国の回顧展は、「写楽を超えた男」を副題に掲げた。

当時の江戸の風俗を書き留めた『江戸風俗総まくり』は、豊国らの描く役者似顔を「物いふがごとし」と評している。写楽についてはこうある。

顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける

顔のくせはよくつかんでいるが、役者の色気まで壊してしまったので、役者たちに嫌われた、というのである。役者絵の頂点に立ったのは、似顔を理想化して描いた豊国のほうだった。

人形師の子

豊国は明和6年(1769年)、江戸の芝に生まれた。本姓は倉橋、名は熊吉。

父の倉橋五郎兵衛は、芝神明前で木彫りの人形を作る職人だった。得意としたのが役者の似顔人形である。山東京伝は、のちに豊国と組んで多くの本を出す戯作者だ。その京伝が、合巻(挿絵の入った読み物)の序にこう書いた。

歌川豊国の亡父倉橋五郎兵衛ハ人形をつくることを業とし、戯子の似顔の人形をつくるに妙を得たり。されバ今豊国、似顔絵を業とすることおのづからの因縁なり

同じ序によれば、豊国の手もとには、父が作った二代目市川團十郎の似顔人形が形見として残っていた。豊国がその人形を当代の團十郎に見せると、團十郎は先祖の似顔をいま見られるうれしさに涙を流した。それで豊国は人形を譲ったという。

父が歌川豊春と知り合いだった縁で、豊国は幼いころにその門に入った。豊春は西洋の遠近法を取り入れた浮絵で知られる、歌川派の始祖である。

写料はいらない

もっとも、はじめから売れたわけではない。江戸の随筆に残る話では、「豊国はじめ一向はやらず」。

そこで赤羽根の金比羅に日参して、願をかけた。満願の日、一枚の絵を描いて芝神明前の和泉屋市兵衛、通称泉市へ持ち込み、こう頼んだ。

これを錦絵にして賜へ、写料は受不申

描き賃はいらない、と。泉市は気の毒に思って出してやった。それがそこそこ売れたので、次々に注文が来るようになった。売れっ子になってからも、泉市の仕事だけはおろそかにしなかったという。

冒頭の《役者舞台之姿絵》の版元も、この泉市である。

作者より先に名が載る

稼ぎ場は錦絵だけではない。読本や合巻の挿絵の仕事も、山のように抱えていた。

曲亭馬琴が記録している話がある。文化元年(1804年)、山東京伝の読本『優曇華物語』は、唐画の絵師が挿絵を描いたために町の読者に受けず、評判は散々だった。そこで京伝は次の『桜姫全伝曙草紙』で挿絵を豊国に替えた。馬琴によれば、この本は「大く時好に称ひて、雅俗倶に佳妙とせり」。

文化4年(1807年)の京伝の合巻『於六櫛木曽仇討』では、豊国の思いつきで、登場人物の顔をすべて人気役者の似顔にした。後年の記録は、これを合巻の人物を役者似顔にした始まりとしている。

この時代、作者と絵師が張り合うと、勝つのはいつも絵師の側だった。本の表記も「豊国絵京伝作」と、絵師の名を先に書くほどだったという。

文化5年(1808年)の夏、市村座で怪談狂言『彩入御伽艸』がかかる。こはだ小平次の亡霊とその女房の二役を、初代尾上松助が一人で演じた。その舞台を、豊国は錦絵にしている。

売れっ子の常で、いくつもの版元の締切に追われていた。伝わる逸話では、豊国が裏屋に閉じ込められて描かされていたとき、花見に行きたいと言い出した。許されない代わりに、版元が桜の枝を取ってきて部屋に生け、どうにか描かせたという。

市井の女たち

美人画も描いた。上は、小野小町が言い寄る男に百夜通いを課した故事を、夜道を行く遊女とお供に見立てた一枚である。

同じころ、美人画の第一人者は喜多川歌麿だった。豊国の女性は歌麿ほど艶やかではない。代わりに、武家の女性から長屋の女房、河岸の下級遊女まで、町のあらゆる階層の女性を描いた。銭湯の脱衣場を舞台にした三枚続もある。

歌川豊国
Women and an Infant Boy in a Public Bath House
1799 木版多色刷/三枚続 38.1 × 25.4 cm

描きすぎた、と言われて

豊国は描きすぎた、と言われてきた。

黄表紙・合巻・絵本の類だけで、生涯に四百数十部を手がけたとされる。これに錦絵と肉筆画が加わる。版元たちは豊国の絵なら売れると知っていて、方々で追い回して描かせた。

その量が質を落としたという見方は、早くからあった。天保4年(1833年)、渓斎英泉は随筆に、ある人の言葉を書き留めている。豊国の絵は筆づかいの骨格では兄弟子に遠く及ばないが、「流俗ノ眼ヲヨロコバシムル一妙ヲ得タリ」。いまの事典も、文化年間以降は「殺到する注文に応じ、乱作に陥ったが、人気は依然衰えず」とまとめている。

歌川豊国
Nakamura Utaemon III as Taira no Kiyomori
1812 木版多色刷 37.8 × 25.7 cm

文化期の仕事がすべて雑だったわけではない。上は文化9年の一枚で、金属の顔料と漆を使った、手のかかった摺りである。三代目中村歌右衛門は、上方から下ってきて江戸っ子を熱狂させた役者だった。この一枚は、歌右衛門がこの冬の顔見世で大坂へ上るのに合わせて出されたものらしい。

七草の日に

文政8年(1825年)1月7日、豊国はこの世を去った。57歳。晩年は病で筆を執れない時期もあったらしい。

弟子の国貞は、師の死絵(亡くなった人を悼んで出す肖像の錦絵)を描いて句を添えた。

すゝらばや粥の七種の仏の座

正月7日は七草粥を食べる日で、仏の座は七草の一つである。詞書には、この月の七日に師と長い別れになった、喪にこもった朝、涙とともに、とある。

「国」の字

門人は40人を超えた。弟子たちは師の名から「国」の一字をもらって画号にした。国貞も国芳も、その中にいる。

生前の文化10年(1813年)、戯作者と絵師を力士になぞらえた見立て相撲番付が出ている。東西の大関は山東京伝と豊国で、関脇には式亭三馬と、弟子の国貞が並んだ。

没後3年目の文政11年(1828年)、門人たちは師の遺した筆数百本を柳島の妙見堂に埋め、碑を建てた。碑の裏には、「国」の字を持つ直弟子の名に続いて、国貞社中、国芳社中と、孫弟子の名までが刻まれた。

豊国の名はその後、弟子の豊重が二代目として継ぎ、さらに国貞が継いだ。

歌川豊国

Utagawa Toyokuni

1769–1825

出典

  • 加藤好夫「浮世絵師総覧」(山東京伝『朝茶湯一寸口切』序、喜多村筠庭の談を収める斎藤月岑『増訂武江年表』、曲亭馬琴『物之本江戸作者部類』、山東京山『蜘の糸巻』、渓斎英泉『無名翁随筆』、『江戸風俗総まくり』、見立相撲番付、豊国先生瘞筆之碑の碑文、国貞の死絵の翻刻)
  • 藤懸静也『増訂浮世絵』1946年
  • 平凡社『世界大百科事典』「浮世絵」
  • 『日本大百科全書』(永田生慈)
  • 太田記念美術館「生誕250年記念 歌川豊国 ―写楽を超えた男」展の解説、2019年
  • 文化デジタルライブラリーの解説(初代尾上松助と南北)
  • 各図版を所蔵する機関の記録

注

  • 絵師の名が作者より先に立ったことと版元の追い回しは藤懸静也『増訂浮世絵』、写楽との評価の違いは『世界大百科事典』の「浮世絵」の項、画業の区分は『日本大百科全書』による。
  • 写楽のデビューと両者の競り合い、締切の逸話、美人画の特徴は、太田記念美術館の展覧会の解説に拠った。
  • 制作年と寸法は、各図版を所蔵する機関の記録に従った。

Images

  • 歌川豊国《Tachibanaya: Ichikawa Yaozo III as Fuwa Banzaemon, from the series "Portraits of Actors on Stage (Yakusha butai no sugata-e)"》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham CollectionSource
  • 東洲斎写楽《The actor Otani Oniji III as Edobei》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham CollectionSource
  • 歌川豊国《Matsusuke Onoe I as Kohada Koheiji, in the July 1808 Edo Ichimura-za production of Iro-e Iri Otogi Zōshi, painted》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川豊国《Courting Komachi (Kayoi Komachi), from the series Seven Fashionable Figures of Ono no Komachi (Furyu nana Komachi yatushi sugata-e)》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham CollectionSource
  • 歌川豊国《Women and an Infant Boy in a Public Bath House》 — CC0 / This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access PolicySource
  • 歌川豊国《Nakamura Utaemon III as Taira no Kiyomori》 — CC0 / This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access PolicySource