天保13年(1842年)、柳亭種彦は長編の合巻(挿絵の入った読み物)『偐紫田舎源氏』の第38編を出した。その序で、種彦は主人公の髪型についてこう書いている。

此草紙に光氏が大将髷を海老の尾のやうに割しは 亀戸の案じ

大将髷を海老の尾のように割った光氏の髪は、亀戸の考えたものだ、というのである。亀戸に住んでいた挿絵の絵師、歌川国貞のことだ。種彦によれば、この髪型は絵馬や羽子板や押絵、吉原の軒灯籠、団扇、それに煎餅の形にまで写された。

国貞は、幕末の江戸でいちばん売れた浮世絵師である。

渡し場の子

国貞は天明6年(1786年)、本所五ツ目に生まれた。本名は角田庄五郎。

家は竪川の渡し場を営んでいた。戯作者の式亭三馬は、国貞について「本所五ッ目渡し場の際に住居す、則渡し場のあるじ也」と書き留め、人柄を「柔和温順の性質なり」と評した。のちに使う号「五渡亭」は、この五ツ目の渡しにちなむ。

15、6歳で、国貞は初代歌川豊国の門に入った。豊国は当代一の役者絵師で、この門からは国芳も出ている。

名が売れるのは早かった。文化5年(1808年)、三馬が書いた合巻の挿絵を国貞が描くと、これが大当たりした。三馬によれば、国貞は翌年からますます売れ、いまや一家を成す浮世絵師の「大だてもの」になった。まだ20代の前半である。

五渡亭を名乗っていたこの時期の美人画は、国貞の画業で最も評価の高い作とされる。当時流行した人相見に乗って、女性の顔立ちと性格を「〜相」の題で描き分けたシリーズ(揃物)である。

画工の心まかせ

国貞の最大の当たりは、錦絵ではなく本だった。

『偐紫田舎源氏』は、『源氏物語』を室町時代に移した翻案である。光源氏にあたる主人公を光氏という。文政12年(1829年)の初編から天保13年(1842年)の第38編まで、国貞が全編の挿絵を描いた。

曲亭馬琴は、友人への手紙でこの本の出来を評している。

国貞の画、尤妙ニ御座候。種彦ハ画わり出来不申候故、人物の所斗画キ、画工の心まかせに画せ候よし。それ故歟、拙作を画せ候より、十段もよろしく御座候

種彦は画面の割り付けができないので、人物だけ指定して、あとは絵師の好きに描かせている。だから自分の本に描かせるより十段も出来がいい、という。そのうえで馬琴は、国貞を「只今合巻の画において、一大家」と認めた。

江戸と大坂の風俗を書き留めた喜田川守貞も、この本の挿絵には国貞が特に力を尽くし、それまでとは画風まで変わったようだと書き、「今世にては田舎源氏を以て合巻の魁首と云べし」とした。本の人気は錦絵に及び、源氏絵の流行を生んだ。

机の上が暇だった二年

天保13年(1842年)、天保の改革が浮世絵を直撃した。

この年の5月、国貞は処罰を受けている。役者似顔はすでに差し止められていた。それなのに、芝居見物の人々や人形遣いの顔を役者に似せた錦絵を出したとして、国貞と国芳、版元らの計7人が、それぞれ三貫文の過料(罰金)を科された。

翌月の出版統制令で、遊女や芸者を描くこと、歌舞伎役者の似顔や名前、紋を浮世絵に描くことがはっきり禁じられた。

同じ年の夏、『偐紫田舎源氏』は絶版を命じられる。種彦はその7月に世を去った。作者が亡くなったためか処分は絶版だけで済み、国貞も咎めを免れた。

馬琴は、この二年の国貞をひとことで書いている。

寅卯両年ハ机の上隙也し

寅年と卯年、天保13年と14年は、机の上が暇だった。

二代目の豊国

改革のほとぼりが冷めはじめた天保15年(1844年)、国貞は師の名を継いで豊国を名乗った。そして「二代豊国」と署名した。

ところが、二代目の豊国はすでにいた。初代の門人で養子の豊重が、その没後に二代目を継いでいたのである。

馬琴の見立てはこうだ。国貞はすでに師以上に名が高く、豊国になる必要などなかった。ただ改革で仕事のなかった二年のあとで金が要った。書画会(その場で書画を描いて謝礼を集める会)を開くのに名目がほしく、名を広める会と称して豊国になったのだろう。そのうえで馬琴は、こう書き添えている。

錦絵抔に二代豊国と書候得共、実ハ三代也

次のような狂歌も伝わっている。

歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国偽の豊国

今日、国貞の豊国は「三代豊国」と数えられている。

それでも、名前の人気は揺るがなかった。嘉永6年(1853年)に出た評判記の浮世絵師の番付には、こう並ぶ。

豊国にかほ 国芳むしや 広重めいしよ

似顔なら豊国、武者なら国芳、名所なら広重。この豊国が国貞である。『守貞謾稿』は国貞を「今江戸一の浮世絵師也」と書いた。

歌川国貞(三代目歌川豊国)
Prins Genji met kersenbloesem
1849

冒頭と同じ光氏を、豊国の名で描いた団扇絵である。『偐紫田舎源氏』は絶版になったが、源氏絵の流行はその後も続いた。

改革の熱が引くと、役者絵も戻ってくる。嘉永5年から6年にかけて出た《役者見立東海道五十三駅》は、東海道の宿場を背景に、その土地にゆかりの物語の人物に扮した人気役者を描いた揃物である。

歌川国貞(三代目歌川豊国)
東海道五十三次之内 白須賀 猫塚
1852

凡庸きわまる

国貞が生涯に残した作品の数は、1万点以上とも数万点ともいわれ、浮世絵師の中で最も多いとされる。当時いちばん人気があったのは国貞なのに、いまの知名度は同世代の国芳や広重に遠く及ばない。その多さが、死後の評価を押し下げた。

大正4年(1915年)、アーサー・デイヴィソン・フィッケは英語の浮世絵入門書『Chats on Japanese Prints』で、国貞をこう切り捨てている。

This very undistinguished artist was one of the most prolific producers of the school.

凡庸きわまる、最も多作な絵師の一人。図柄は無意味に込み入り、色は粗く、摺りはぞんざいで、色刷り版画の最後の崩壊を思わせるものがすべて国貞に出ている、とまで書いた。日本でも昭和6年(1931年)の『浮世絵師伝』が、年を追って堕落に傾き「たゞ徒らに、作品の数量を無制限に増大せしめたるのみなりき」と評している。

風向きが変わるのは1990年代に入ってからである。1993年、新藤茂が『五渡亭国貞 役者絵の世界』を出した。

2014年、太田記念美術館で「没後150年記念 歌川国貞」展が開かれた。監修した新藤は「国貞抜きで19世紀の浮世絵を語ることはできない」と語っている。2017年にはボストン美術館が、国芳と国貞を対決させる展覧会「Showdown! Kuniyoshi vs. Kunisada」を開いた。

七十九歳豊国筆

晩年の国貞は、署名に年齢を書き入れた。上の一枚は、紙を縮めて縮緬のような風合いを出した縮緬絵で、「七十九歳豊国筆」とある。この年の暮れ、元治元年12月15日(西暦では1865年1月12日)、国貞はこの世を去った。79歳だった。

弟子が描いた追悼の肖像には、辞世が書かれている。

一向に弥陀へまかせし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏

肖像を描いたのは、娘婿として二代国貞を継いだ弟子である。画中では、師の名を「二代目歌川豊國」と記した。別の追悼の肖像を描いた門人の豊原国周も、師を二代目と記している。

歌川国貞(三代目歌川豊国)

Utagawa Kunisada / Utagawa Toyokuni III

1786–1865

出典

  • 加藤好夫「浮世絵師総覧」(柳亭種彦『偐紫田舎源氏』三十八編序、喜田川守貞『守貞謾稿』、式亭三馬『式亭雑記』、曲亭馬琴の書簡と『吾仏乃記』、『藤岡屋日記』、襲名を諷した狂歌、辞世、井上和雄『浮世絵師伝』1931年の翻刻)
  • 静岡市東海道広重美術館の解説(嘉永6年の番付)
  • Arthur Davison Ficke, Chats on Japanese Prints, 1915
  • 太田記念美術館「国貞・国芳・広重とその時代」展、2008年
  • 太田記念美術館「没後150年記念 歌川国貞」展、2014年と、インターネットミュージアムの同展レポート
  • ボストン美術館の2017年展の案内
  • 『日本大百科全書』(永田生慈)
  • 『世界大百科事典』(松木寛)
  • 各図版を所蔵する機関の記録

注

  • 嘉永6年の番付の書名は『江戸寿那古細撰記』とされるが、宮武外骨は同じ文句を『当代全盛高名附』から引いている。
  • フィッケの評は原文から引いた。
  • 天保の改革の出版統制は「国貞・国芳・広重とその時代」展、評価の推移は「没後150年記念 歌川国貞」展とボストン美術館の展覧会の案内を参照した。
  • 制作年と寸法は、各図版を所蔵する機関の記録に従った。

Images

  • 歌川国貞(三代目歌川豊国)《Mitsuuji with Mountain Roses (Yamabuki),, from the series “Six Jewel Faces” (Mu tama-gao)》 — CC0 / This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access PolicySource
  • 歌川国貞(三代目歌川豊国)《The Clever Type (りこう相」, Rikô sô),, from the series Thirty-two Physiognomic Types in the Modern World (「当世三十弐相, Tôsei sanjûni sô)》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川国貞(三代目歌川豊国)《Prins Genji met kersenbloesem》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川国貞(三代目歌川豊国)《東海道五十三次之内 白須賀 猫塚》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Diet Library Digital Collections: Persistent ID 1305341Source
  • 歌川国貞(三代目歌川豊国)《The actor Bando Hikosaburo V as Konjin Chogoro, from the series "One Hundred Selected Actors (Haiyu hyakkasen)"》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Goward CollectionSource