豊原国周は、明治の東京で役者の似顔を描いた絵師である。役者絵には胸から上を大きく描く「大首絵」という型があるが、国周の大首は、たいてい襟から上しかない。なかには顔がほぼ実物大のものまである。そう指摘したのは、昭和の初めに国周を掘り起こした小島烏水だった。
安絵の山から
小島烏水は、浮世絵の研究でも知られた文筆家である。昭和の初めのころ、東京・御成道の浮世絵商の店先では、国周の錦絵が選り取りいくらの山になって積まれ、いちばんありふれた安い絵として売られていた。烏水自身、子どものころは一枚も買う気になれなかったと書いている。
その山から役者の大首を拾い上げて眺めるうちに、ある言葉が浮かんだという。
寫樂以來の寫樂が、反古繪の中から、あらはれたといふことだ。寫樂以來の第一人が。
昭和4年(1929年)1月、雑誌『浮世絵志』に載った国周論の一節である。のちに単行本『江戸末期の浮世絵』(1931年)に収められた。
写楽は、寛政6年(1794年)にわずか10か月ほど役者の大首絵を出して姿を消した絵師である。その系譜に国周を置いたうえで、烏水は二人の違いを明治の名優にたとえた。
寫樂が腹藝の九代目(團十郎)張りとすれば、國周は形の整つた五代目(菊五郎)風である。
九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎は、明治の歌舞伎を二分した看板役者だった。国周はこの二人を、生涯にわたって描き続けることになる。
いまも国周を「明治の写楽」と呼ぶ紹介を見かけるが、烏水はそう書いていない。書いたのは「写楽以来の写楽」「写楽以来の第一人」である。
八十八という名
国周は天保6年(1835年)、江戸・京橋に生まれた。本名は荒川八十八(やそはち)。
明治31年(1898年)、64歳の国周は『読売新聞』の聞き書きに応じ、名前の由来をこう語っている。
親父が九十で、お袋がお八百だからッてんで、八十八という名を附けたんだ。
少年のころに奉公に出されたが、番頭の似顔を落書きしてばかりで長続きしなかった。そこで、羽子板に貼る押絵の役者似顔を描く職人について修業した。やがて歌川国貞の門に入った。国貞はのちに三代豊国を名乗り、幕末の江戸で役者絵の頂点にいた人である。本人は「ちょうど十七年の間、そこで修業した」と言っている。
国周は歌川派の中にいながら、歌川を名乗らなかった。豊原という姓の由来ははっきりしない。最初の師が豊原周信という絵師で、その恩から姓をもらった、とする説が広く流布している。だが烏水は、周信という絵師の存在自体を疑っている。国周の談話にも、周信の名は出てこない。
修業時代の作だ。舞台の扮装ではなく、楽屋でくつろぐ役者の素顔を売る趣向だった。
師の死絵
元治元年(1864年)12月、師の国貞が79歳でこの世を去った。
人気役者や絵師が亡くなると、追悼のために肖像の錦絵が売り出された。これを死絵という。烏水によれば、版元の錦昇堂が師の死絵を出すにあたり、多くの門人の中から特に選ばれて筆を執ったのが国周だった。国周自身も句を手向けている。
大首の国周
明治2年、日本橋人形町の版元・具足屋から、国周の役者大首絵の連作が出た。この年に舞台にかかった狂言から、役者を一人ずつ描いたものである。烏水は、これを国周の大首物でいちばん傑作の多い連作と見ている。
上は四代目中村芝翫の熊谷直実。團十郎が史実に寄せた演出を始める前、熊谷の顔はこの赤だったという。
国周の錦絵を年代順か役者別に綴じれば、そのまま明治の歌舞伎の歴史になる。そう言ったのも烏水である。実際、ある三枚続(大判三枚を横につないだ錦絵)では、左團次の顔が貼り紙の上に描かれていて、めくると團十郎の顔が出てきた。年代記を調べると、明治23年に團十郎が急病で倒れ、左團次が代役を務めた時のものだった。刷り上がった版を、配役の変更に合わせて貼り替えたのである。
似顔は国周
明治23年(1890年)11月30日の『読売新聞』は、浮世絵師たちの得意分野をこう並べている。
武者絵ハ芳年、似顔ハ国周、官女ハ周延
歴史画の月岡芳年、役者の似顔の国周、大奥の女性風俗を描いた楊洲周延。翌年の同紙は、国周を芳年と並ぶ「浮世絵師の二柱」と書いた。
團十郎が気に食わない
明治26年(1893年)11月、『読売新聞』に小さな記事が出た。
菊五郎は、当たり役百番の似顔を国周に描かせていた。それを聞いた團十郎は負けじと自ら国周を訪ね、菊五郎が払った画料の倍を出すから描いてくれと頼んだ、という。こうして始まったのが《市川團十郎演芸百番》だった。
ところが、当の国周は團十郎が好きではなかった。
団十郎ッて奴は、初めッから気に食わねえ。
国周が腹を立てたのは、團十郎が菊五郎に、国周は横柄だとこぼしたと聞いたからだという。西郷隆盛を題材にした芝居では、わざと團十郎の西郷を出目に描いた。しばらくは、三枚続に團十郎を一人で描かないと決めていたとまで語っている。
菊五郎の百番は1年ほどで描き上がった。團十郎の百番は後回しにされ、国周がこの世を去る年にようやく揃ったとされる。
三枚続に、一人
名を最も高めたのは、三枚続の使い方だった。
三枚続の幅は、およそ75センチになる。ふつうは大勢の役者が並ぶ芝居の一場面に使う。国周はそこに役者を一人だけ、半身で大きく描いた。
幕末の役者絵は、量が増えるほど質が落ちた。平凡社『世界大百科事典』の「役者絵」の項はそう見たうえで、国周が「大錦三枚続きの大画面に一人の役者の半身像を描くという意表をついた新形式を開拓」したと評価する。
同じ明治29年、五代目菊五郎の猿廻し与次郎。烏水はこの年の團十郎と菊五郎の三枚続を挙げ、還暦を過ぎた国周の筆がここで若返ったと評している。
引っ越し百十七回
人となりを伝える話は、ほとんどが金と引っ越しである。
明治31年の談話で、国周はこう胸を張っている。
わたしは生れたところを離れてから、今までに百十七回引ッ越した。自慢ではないが、北斎は生涯の内に、八十余度引ッ越したというけれども、引ッ越しの方では、わたしが兄分だ。
一日に三度越したこともあった。引っ越しの記録だけは、ちゃんと日記につけてあるという。
ところが、数字は資料ごとに違う。7年前の明治24年の『読売新聞』は85回、同じ年の別の記事は87回、門人の証言では83回。本人の申告は117回まで増えている。
ここで烏水は、地道な確かめ方をした。錦絵の余白には、届け出のために画工の住所が刷り込まれているので、それを年ごとに拾っていくと、明治9年から20年までの12年間で国周が越したのは、わずか5回だった。
金の話も負けていない。役者と張り合って大川に屋根船を何艘も繰り出し、建てたばかりの家を借金のかたに取られ、「身代限り」、いまでいう破産を言い渡された。
東京でそうなったのは自分が二番目だと聞くと、国周はその言い渡し書を額に入れ、家の前に掲げた。談話ではこうも言っている。
絵かきなんてものは、金のねえ方がさっぱりしていいよ。
談話を取った記者によれば、住まいは本所の棟割長屋の真ん中で、奥の二畳には机が散らかっていた。
似顔絵もおしまい
明治33年(1900年)7月1日、国周は本所の住まいで世を去った。66歳だった。一周忌には浅草今戸の本龍寺に碑が建ち、辞世が刻まれた。
よの中の人の似かほもあきたれば ゑむまや鬼の生きうつしせむ
この世の人の似顔は描き飽きたから、今度は閻魔や鬼を写生してやろう、という歌である。
大正4年(1915年)の雑誌『浮世絵』に、国周の似顔絵を高く買っていたある学校の校長の言葉が書き留められている。
あの人が死んだら、モウ似顔絵もおしまいだ。
同じ記事によれば、国周が亡くなると、錦絵を売っていた絵双紙屋は絵葉書屋に替わってしまった。

豊原国周
Toyohara Kunichika
1835–1900
出典
- 森銑三『明治人物夜話』岩波文庫(『読売新聞』明治31年の国周の連載談話を転載)
- 小島烏水「豊原国周評伝」『江戸末期の浮世絵』梓書房、1931年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 加藤好夫「浮世絵師総覧」(『読売新聞』明治23・24・26年の記事と、三村竹清「豊原国周 人物小話」『浮世絵』5号、1915年の翻刻)
- 平凡社『世界大百科事典』「役者絵」
- 『日本人名大辞典』
- 太田記念美術館「生誕190年記念 豊原国周」展の解説、2025年
- 各図版を所蔵する機関の記録
注
- 国周の言葉は、『読売新聞』明治31年の連載談話を森銑三『明治人物夜話』が転載したものによる。
- 小島烏水の文は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原文を確かめて引いた。
- 三枚続の新形式についての評価は、平凡社『世界大百科事典』の「役者絵」の項による。
- 制作年と寸法は、各図版を所蔵する機関の記録に従った。
Images
- 豊原国周《The Actor Ichikawa Sadanji I as Fusakichi the Fishmonger》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- 豊原国周《写真楽屋鑑 2代目澤村 訥升》 — Public domain / This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access PolicySource
- 豊原国周《Memorial Portrait of the Artist Utagawa Kunisada (Toyokuni III)》 — Public domain / ブルックリン美術館(Museum Collection Fund、16.750.1)Source
- 豊原国周《The Actor Nakamura Shikan IV as Kumagai Naozane》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Mr. and Mrs. Hubert Fischer and Margaret Gentles fundsSource
- 豊原国周《Ichikawa Danjuro IX als Watonai Watonai (titel op object) Honderd rollen van Ichikawa Danjuro IX (serietitel) Ichikawa Danjuro engei hyakuban (serietitel op object), RP-P-2003-210》 — CC0 / Wikimedia CommonsSource
- 豊原国周《Actor Ichikawa Danjuro IX as Ishikawa Goemon》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Nathalie Gookin purchased with funds provided by in memory of Frederick W. GookinSource
- 豊原国周《Actor Onoe Kikugoro V as Yojiro》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Nathalie Gookin purchased with funds provided by in memory of Frederick W. GookinSource
