戦場に雷電神が現れる

土佐光信は、室町時代に宮廷と幕府の仕事を担った絵師である。晩年の大作《清水寺縁起絵巻》は、清水寺の由来と、観音が人を救う話を描いた絵巻で、1517年から1520年にかけて作られた。縁起とは、寺や神社の起こりや由来、またそれを記した書画のことである。

絵巻は上巻・中巻・下巻の3巻からなる。中巻の冒頭に描かれるのは、平安時代の武将・坂上田村麻呂の戦いである。田村麻呂は、清水寺の創建に力を貸した人物でもある。東北方面の人々を指す「蝦夷」との戦いで、田村麻呂が地蔵菩薩と毘沙門天に祈ると、雷電神が加勢する。雷電神の加勢は、祈りに応えた加護として描かれている。

この絵巻は、寺の縁起を、観音の霊験で人が救われる話の連なりとして描く。堂がいつ建ったかだけでなく、観音に祈った人に何が起きたかを、長い巻物に繰り広げている。

田村麻呂が生きた時代と、この絵巻が作られた時期には、約700年の隔たりがある。合戦の絵は、16世紀初めの畿内の人々が思い描いた蝦夷の姿でもある。

宮廷の絵師は、公家の連歌の席にいた

光信の生年と没年は、はっきりしない。『土佐家系図』は、大永5年(1525年)に92歳で没したと記す。逆算すると、1434年ごろの生まれになる。没年を1521年ごろ、1522年ごろとする事典もある。

光信は1469年、宮廷の絵所預に任じられた。絵所は朝廷の絵画制作を担う組織で、絵所預はその長にあたる。この任命は、室町幕府8代将軍・足利義政の命令を記した文書に残っている。京都で応仁の乱が続いていたころのことだ。

1491年前後には、幕府の絵師の職も兼ねた。注文を受けた相手は、宮廷や公家だけでなく、将軍家、地方の大名、寺社にも及ぶ。仏の絵や肖像画、扇の絵から、屏風、絵巻まで、依頼に応じて形式も変わった。

光信の周りには、連歌があった。連歌は、短い句と長い句を人々が交互に詠み、1つの作品につなぐ文芸である。光信は、公家たちの連歌会にも参加した。

交流した1人が、和歌や古典に通じた公家・三条西実隆である。実隆の日記『実隆公記』には、1501年に、北野縁起絵の相談に来た光信が2度現れる。

光信は、日本の風景や風俗を描く伝統の中で仕事をした。この伝統をやまと絵といい、その流派の1つが土佐派である。光信の絵には、中国から伝わった水墨画の手法も取り入れられた。水墨画は、主に墨の濃淡を使って描く絵である。

日本中世の絵画を研究する美術史家・相澤正彦は、光信をやまと絵の革新者として捉えている。その晩年の作が《清水寺縁起絵巻》である。

3巻33段を、少しずつ開く

《清水寺縁起絵巻》の制作を主導したのは、公家の近衛尚通と、興福寺一乗院の良誉である。光信の絵に、公家たちが分担して書いた文章が加わった。実隆も、永正17年(1520年)4月24日の日記に、清水寺の絵巻の文章5段を書いたと記している。絵巻全体の完成は1520年と考えられている。

物語は3巻、33段に分かれる。33という数は、人々の求めに応じて33の姿に変わる観音にちなんでいる。上巻は寺の創建と田村麻呂の戦い、中巻は戦いの続きや帰還、下巻はさまざまなご利益の話へ進む。

絵巻は、横長の紙を巻き取って収めたもので、両手で巻きながら、右から左へ場面を送って見る。この作品では、文章と絵が交互に置かれている。絵に添えられた文章を詞書という。

3巻を合わせた長さは約63メートル。中巻だけでも約19メートルある。

火災の話から、武士の救いへ

下巻では、清水寺そのものが危機にさらされる。下巻の2番目の場面には、二条天皇の葬儀が描かれる。葬儀には比叡山延暦寺と奈良の興福寺の僧たちが参加し、葬儀は無事に終わった。しかしその年、比叡山の僧兵が清水寺に火を放ったという。

3番目の場面は、その火災に続く奇跡の話である。本尊とは、寺で中心となる仏像のことだ。清水寺の本尊である観音は、自ら堂を出て木の上へ移り、難を免れた。次の場面では、救いの話が1人の武士の身に移る。

盛久に授けられた言葉

下巻の4番目と5番目の場面には、平家に仕えた武士・盛久が登場する。盛久は源氏方に捕らえられた。清水寺への信仰が篤かった彼の夢に、年老いた僧が現れ、秘密の呪文を授ける。4番目の場面は、獄舎で老僧と向き合う盛久を描く。

続く5番目の場面は、盛久の処刑である。盛久が夢で授かった呪文を唱えると、首に打ち下ろされる太刀が二つに折れる。清水寺の観音のご利益による奇跡である。

鶴の妻は、布を織らない

京都国立博物館の《鶴の草紙》は、「鶴の恩返し」に似た話を描いた絵巻である。ただし、この妻は布を織らない。高さは17.3センチで、高さ33.9センチの《清水寺縁起絵巻》のおよそ半分だ。こうした小型の絵巻を小絵という。光信の周辺で多く作られた形式である。

物語の舞台は、いまの滋賀県にあたる近江。妻を亡くし、山里で1人暮らしていた男が、猟師につかまった鶴を見つける。男は自分の服と引き換えに鶴を引き取り、放してやった。

鶴を救った男のもとに女が現れ、2人は夫婦になる。土地を管理する権力者である地頭が、妻を奪おうとして男に難題を出す。妻は、それを解決して男を助ける。

地頭が男に持って来させようとしたのは、「わざわい」である。男は妻の両親から、わざわいという名の獣を与えられる。その獣が地頭の家で暴れ、地頭は観念して、男を丁重にもてなす。

妻は、自分が助けてもらった鶴であることを明かし、鶴の姿に戻って去ってゆく。室町時代に盛んに作られた、こうした短い物語をお伽草子という。

光信の名のそばに、息子の名もある

《清水寺縁起絵巻》には、光信の息子で、父とともに宮廷の絵所預を担った土佐光茂の仕事も含まれると考えられている。下巻には画風の異なる場面があり、光信の筆と光茂の筆とに分けて見られている。

《鶴の草紙》は、所蔵館の記録の作者欄に光信の名がある。そのうえで、館の解説は、光信の周辺で多く作られた小絵の1例としている。

出典

注

  • 《清水寺縁起絵巻》の制作年は、所蔵館の記録では1517年とされる。
  • 下巻の場面は、文化遺産オンラインの解説の数え方(2番目から5番目の場面)に従った。
  • 本尊が移った木を、解説は檜とするが、絵の木は松の形で描かれている。
  • 下巻の寸法は、e国宝と ColBase で少し違う。
  • 図版は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム(ColBase)の東京国立博物館・京都国立博物館所蔵品の画像を、場面ごとにトリミングして作成した。

Images

  • 土佐光信《清水寺縁起絵巻 巻中(部分) 雷電神の加勢》 — ColBase 利用規約(出典の記載とトリミングの明記)。原作はパブリックドメイン / 東京国立博物館蔵(重要文化財)。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-43-2)の画像をトリミングして作成Source
  • 土佐光信《清水寺縁起絵巻 巻下(部分) 本尊が木に移る》 — ColBase 利用規約(出典の記載とトリミングの明記)。原作はパブリックドメイン / 東京国立博物館蔵(重要文化財)。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-43-3)の画像をトリミングして作成Source
  • 土佐光信《清水寺縁起絵巻 巻下(部分) 獄中の盛久と老僧》 — ColBase 利用規約(出典の記載とトリミングの明記)。原作はパブリックドメイン / 東京国立博物館蔵(重要文化財)。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-43-3)の画像をトリミングして作成Source
  • 土佐光信《清水寺縁起絵巻 巻下(部分) 盛久の処刑》 — ColBase 利用規約(出典の記載とトリミングの明記)。原作はパブリックドメイン / 東京国立博物館蔵(重要文化財)。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-43-3)の画像をトリミングして作成Source
  • 土佐光信《鶴の草紙(部分) 地頭の屋敷》 — ColBase 利用規約(出典の記載とトリミングの明記)。原作はパブリックドメイン / 京都国立博物館蔵。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B2659)の画像をトリミングして作成Source

この記事に出てくる作家

土佐光信

Tosa Mitsunobu

1434?–1525?

土

土佐光茂

Tosa Mitsumochi