ヴェネツィアの絵は、布でできている
竹内栖鳳(たけうち・せいほう)は、明治から昭和にかけて京都で活躍した日本画家である。1900年にヨーロッパへ渡り、イタリアの水の都ヴェネツィアにも立ち寄った。そのヴェネツィアを、栖鳳はのちに《ベニスの月》に描いた。
《ベニスの月》という題の作品は二つある。上の図版は、栖鳳の原画をもとに、職人が布に染めた壁掛のほうだ。大英博物館にあるこの作品は、ビロード友禅で作られている。ビロードに友禅染で絵を染める技法で、明治に始まった。染めた色に、ビロードの柔らかな毛並みと光沢が加わる。
もとになった原画は、栖鳳が1904年に描いた別の《ベニスの月》で、いまは大阪の髙島屋史料館にある。墨だけでヴェネツィアの風景を描いた絵である。原画を注文したのも髙島屋だった。大英博物館の記録では、壁掛は1910年の作である。
京都の料理屋から、髙島屋の画室へ
栖鳳は1864年、京都の料理屋「亀政」の家に生まれた。10代から絵を学び、京都で育った円山・四条派の描き方を身につける。手本の模写よりも、写生を基礎にした流派である。
対象を見ながら描き、その形や動きを確かめることを写生という。栖鳳の写生は、ヨーロッパで初めて覚えたものではない。修業の出発点からそこにあった。
「日本画」という呼び名は、明治20〜30年代頃から、「洋画」に対して従来の絵画を指すようになった。いまは、和紙や絹に墨や岩絵具で描く絵画を日本画と呼ぶのが一般的である。栖鳳が育ったのは、日本画というまとまりができていく時代だった。
1889年、栖鳳は髙島屋に勤め始めた。仕事は、染織品の下絵を描くことだった。下絵は、完成品のもとになる絵である。当時の髙島屋は、刺繍の額やビロード友禅の壁掛など、海外へ輸出する染織品を作り、万国博覧会にも出品していた。万国博覧会は、各国が産業や技術、美術などの成果を持ち寄る大規模な催しだ。
髙島屋で下絵を描く画家たちは、海外の図版や写真を資料にし、西洋絵画のような表現をどうつくるか研究した。描かれたものを、今度は職人が糸と染料で形にする。
波の上では、写生ができなかった
1893年春、栖鳳は丹波地方への写生旅行から、髙島屋の4代飯田新七に手紙を送っている。高い波を描こうと、栖鳳は三里(約12キロメートル)ほど沖へ出た。ところが船が揺れて写生できない。風がなければ、描きたい大波そのものが起きない。風のある日を待って、もう一度海へ出たいと伝えた。
渡欧前の1899年の手紙では、栖鳳は日本と西洋の描き方を合わせた作品を考えている。飯田新七への手紙には「和洋なかば一種のものと相成り申さずては面白からず」とある。和と洋が半ばずつ混じった一つのものにならなければ面白くない、という意味である。西洋画をもとにした図を日本画家に描かせ、友禅の染物にする案も出していた。ヨーロッパへ行く前から、染物にすることまで考えていたのである。
1900年8月、栖鳳はパリ万国博覧会を視察するために出発した。パリだけで旅を終えず、ロンドン、ベルリン、ウィーンなどを経て、ヴェネツィアやローマへも足を延ばす。帰国は1901年2月だった。
旅では、日本では見られなかったライオンの実際の姿を目にし、ターナーやコローらの作品に触れた。
帰国した年には、京都美術協会で「西洋美術巡遊見聞談」と題して講演している。《ベニスの月》の原画ができるのは、1904年。帰国から3年後である。
写真を使って、月夜をつくる
《ベニスの月》が髙島屋から注文されたのは、世界の風景を雪・月・花に組み合わせる企画の一部としてだった。ロッキー山の雪、吉野の桜、ヴェネツィアの月。雪月花を世界の三つの名所に割り当てた企画で、その月を栖鳳が担当した。
ただし、1904年の原画は、現地の月夜をそのまま写した絵とは言い切れない。栖鳳は写真や絵葉書を集め、帰国後の制作にも使っていた。廣田孝は、2000年の論文で、《ベニスの月》の原画と写真資料の関係を検討している。廣田によれば、画面の視点は海上のある一点に特定でき、写真の存在が推定できる。旅行から原画まで4年近くたっていることなども合わせ、写真か絵葉書を頼りに描いた蓋然性が高いという。
廣田は、この原画を、光を背後から受けた風景を日本画で表す試みとして考察した。
髙島屋が製作した壁掛は、1910年、ロンドンで開かれた日英博覧会に出品された。
天女を描く準備から、人物画が生まれた
1913年、栖鳳は《絵になる最初》を文展に出品した。文展は、文部省が1907年に始めた最初の官展である。審査員は第1回から務めていた。
この絵の背景には、京都の東本願寺から頼まれた天井画の仕事がある。描くのは天女だった。仏教の世界に現れる天上の女性である。人体の形を確かめるために、栖鳳は裸のモデルを招いて素描に取り組んだ。素描は、線や明暗で対象の形を捉える絵をいう。
《絵になる最初》の着想は、その準備の場から得たという。まだモデルに慣れていない女性が、衣服を脱ぐのをためらった。服を脱ぐ直前のためらいが、作品の主題になったのである。
2023年の東京国立近代美術館の重要文化財展では、男性画家と女性モデルを結ぶ視線に気づかされる作品としても取り上げられた。
沼津の八百屋から、猫を連れ帰る
1920年と1921年には、栖鳳は中国を旅した。やがて1924年、《班猫》を発表する。山種美術館が所蔵する、重要文化財の作品である。
モデルになったのは、静岡県沼津の八百屋で飼われていた猫だった。栖鳳はこの猫を気に入り、飼い主から譲り受けて京都へ連れ帰った。画室で自由に遊ばせ、日々その姿を観察し、写生を繰り返した。
この猫に惹かれた理由には、古い中国絵画の記憶もあった。栖鳳は、絵をよくした中国・北宋の皇帝、徽宗の作と伝わる猫の絵を思い起こしたという。
板倉聖哲は、栖鳳が《班猫》で念頭に置いていたのは、水戸徳川家に伝わった伝徽宗の《猫図》だと見る。海の見える杜美術館が持つ栖鳳の写真資料の中からは、モデルになった沼津の猫の写真も見つかった。絵画から現実へ、そして再び絵画へという往き来に、写真が介在した可能性もある、と板倉は書く。
《班猫》では、目と毛を描くのに金泥が使われている。金泥は、金の粉を膠で溶いた絵具である。竹林佐恵は『國華』1569号(2026年)で、徽宗の《猫図》から、京都の曼殊院に伝わった伝毛松の《猿図》の記憶が呼び起こされ、金泥の毛描きにつながったと考えたい、と書いている。
題名の「班」は誤植ではない。作品を収める箱に栖鳳自身が書いた題に従って、《班猫》と呼ばれている。まだらを表す字にはふつう「斑」を使うが、ここでは画家の残した表記が受け継がれた。
文化勲章と、残された写生
栖鳳の動物画には、精緻な筆で毛を描いた作もあれば、線を省き、できるだけ少ない筆で描いた作もある。その制作の基軸には、徹底した写生があった。
1937年、栖鳳は第1回の文化勲章を受章した。京都市立絵画専門学校と自身の画塾、竹杖会で、多くの画家を育てた。1942年8月23日、療養先の湯河原で世を去った。満77歳だった。完成した絵に加え、京都市美術館には、写生や下絵が多く残されている。
出典
- 東京文化財研究所「竹内栖鳳」(『日本美術年鑑』昭和18年版の物故者記事)
- 廣田孝「竹内栖鳳の西洋風景画制作について――写真利用に関する一考察」『デザイン理論』39、2000年
- 髙島屋「生誕150年 書簡にみる 竹内栖鳳と髙島屋展」ニュースリリース、2014年
- 村瀬実希「髙島屋史料館の研究員と楽しむ「竹内栖鳳」展」AACタイム、2025年
- 板倉聖哲「画猫の系譜―徽宗・春草・栖鳳―」『淡青』37、2018年
- 竹林佐恵「竹内栖鳳 班猫」『國華』1569、2026年(國華社による要旨)
- 東京国立近代美術館「重要文化財の秘密」展プレスリリース、2023年
- 海の見える杜美術館「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展、2024年
- 山種美術館「コレクション」《班猫》
- 文化庁 国指定文化財等データベース「絵になる最初」
- 京都国立近代美術館「交差する表現 工芸/デザイン/総合芸術」出品リスト、2013年
- 京都市京セラ美術館「竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー」展、2023年
- British Museum, 1994,1111,0.1 "Moon Over Venice"
- 静岡県立美術館「竹内栖鳳」作者データ
- コトバンク「円山四条派」「ビロード友禅」「文展」「徽宗」「金泥」
- 濵村美緒「鯛で金を磨く」奈文研ニュース、2022年
- 清水三年坂美術館「明治の美術染織」展解説
- Bunkamura「今さら聞けない渋アート―山種美術館編―」
注
- 大英博物館の壁掛の制作年は、資料によって1905〜1910年頃とも、1907年完成ともいう。本文は所蔵館の記録(1910年)に従った。
- 帰国後の講演の月は、3月とする資料と6月とする資料がある。
- 没年齢は満年齢で書いた。東京文化財研究所の物故者記事は享年79(数え)とする。
- 伝徽宗《猫図》の伝来は、水戸徳川家とする資料(板倉)と、徳川宗家とする資料(竹林)がある。
- 1899年の手紙の一節は、髙島屋「書簡にみる 竹内栖鳳と髙島屋展」のニュースリリース(2014年)から引いた。
この記事に出てくる作家

竹内栖鳳
Takeuchi Seihō
1864–1942

ウィリアム・ターナー
J.M.W. Turner
1775–1851

カミーユ・コロー
Jean-Baptiste-Camille Corot
1796–1875
