菊富士ホテルの40番の部屋

美人画で人気を集めた画家・竹久夢二のもとへ、新しいモデルが通い始めた。1919年、東京・本郷の菊富士ホテル。夢二はこのころ、ここに部屋を借りて暮らしていた。恋人の笠井彦乃は、まだ生きていた。

彦乃は夢二に絵の指導を願い出て、京都で一緒に暮らした女性である。このころは結核で入院していた。交際に反対していた父親の手で、夢二とは引き離されていた。ホテルへ来るようになったのは、職業モデルのお葉だった。

その年、夢二は《黒船屋》を描く。作家の近藤富枝によれば、描き上げたのはこのホテルの40番の部屋だった。

竹久夢二
黒船屋
1919

彦乃への思いを込めた作品と見られている。そこにお葉の姿が重なるという見方もある。目の前に座る人と、心に浮かぶ人が同じとは限らない。夢二の美人画には、そうしたずれがある。

40番の部屋から、少し時間を戻そう。最初に夢二の絵と暮らしを変えた女性は、絵葉書を売る店にいた。

絵葉書屋の女主人と結婚する

岸たまきは、早稲田鶴巻町で絵葉書店を営んでいた。前の夫を亡くし、子供を育てるための店だった。そこへ夢二が客として現れた。たまきの回想によれば、店を開いて5日目だった。

夢二は店で売る絵葉書を描き、仕入れ先も教えた。1907年1月、二人は結婚する。

夢二式美人と呼ばれる女性像がある。うりざね顔に、細くしなやかな体つき、大きな眼。その最初のモデルが、目の大きな人として知られたたまきだった。

岸たまき(1912年頃)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
岸たまき(1912年頃)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

《さくら湯》も、たまきをモデルにした一枚である。この絵の女性は、糠袋を口にくわえて銭湯から出てくる。糠袋は、石鹸が広まるまで使われた日本の洗浄用品だ。

竹久夢二《さくら湯》(明治末期、竹久夢二美術館)。出典:竹久夢二美術館「竹久夢二 愛と想い―作品に託したメッセージ」プレスリリース
竹久夢二《さくら湯》(明治末期、竹久夢二美術館)。出典:竹久夢二美術館「竹久夢二 愛と想い―作品に託したメッセージ」プレスリリース

明治になっても、美人画には細くつり上がった目が好まれ、大きな目は下品とされていた。夢二は、そこへ大きな瞳の美人を持ち込んだ。着物を着る女性に、西洋の影響を受けた新しい好みを重ねたのだ。その絵は1910年までに、約45種の新聞や雑誌に載った。美人画は、展覧会で見るものというより、ページをめくって出会うものになった。

ただ、モデルになった本人の生活は、絵の人気とともに落ち着いたわけではない。二人は1909年5月に戸籍上離婚し、その後も同居と別居を繰り返した。

息子は3人いる。長男は離婚の前の年に、次男と三男は離婚のあとに生まれた。

1914年、たまきは突然、離縁状を渡されたと回想している。籍を抜いたあとも続いていた暮らしに、区切りをつけるものだった。代わりに店を開いてやると言われたという。その年の10月、夢二は日本橋に港屋絵草紙店を開き、たまきに店を任せた。半襟や帯、千代紙、便箋など、自分の図案を商品にする店である。たまきが売り、客が買って身につけることで、夢二の描く装いは街へ出ていった。

同じ1914年の木版《港屋絵草紙店》は、この店の名を入れた一枚である。

竹久夢二
Minato-ya Ezōshi Ten
1914 木版画

開店を記念した風呂敷も作られた。図柄は実在の港ではない。黒船が来たころの港に、芸者や宣教師、舶来品を集めた空想の絵である。懐かしい日本と異国への憧れを、包んで持ち歩く布にした。たまきは、その店先に立った。

竹久夢二《港屋開店記念風呂敷》(1914年、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「港屋開店記念風呂敷」)
竹久夢二《港屋開店記念風呂敷》(1914年、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「港屋開店記念風呂敷」)

絵葉書の店で出会った二人は、港屋という店をはさんで、別れようとしていた。

富山の海岸から、短刀が抜けない宿へ

港屋の仕事を助けた若者に、東郷青児がいた。のちに洋画家となるが、このころはまだ画家を目指す青年だった。留守がちな夢二に代わり、たまきの頼みで夢二の絵の代作をしたという。

たまきと青児は、店の仕事だけの関係ではなくなった。

美術記者の田中穣が東郷青児について書いた『心淋しき巨人東郷青児』には、二人が不倫の関係にあったという話が収められている。青児の師だった洋画家・有島生馬から聞いた話として、田中のもとへ持ち込まれたものだ。青児が鎌倉河岸の家の2階に泊まり込んでいたとき、夢二が帰宅して騒ぎになり、それを境に青児は夢二との関係を絶ったという。

のちに青児が語ったのは、夢二の絵に色を塗る手伝いをさせられたことだった。たまきとのことを青児自身が語った言葉は、確かめられた資料には見当たらない。

籍の上では、夢二とたまきはもう夫婦ではなかった。それでも夢二はたまきと青児の仲を疑い、たまきを責めた。1915年、画会(絵を売る会)のため富山へ出かけていた夢二は、たまきを呼び寄せる。

たまきが残した「夢二の想出」では、その夜は海岸だけでは終わらない。富山の泊の近くの海岸で、夢二はたまきに一晩じゅう短刀を突きつけて引き回した。雨に濡れた着物が足に絡み、座り込むと髪をつかんで立たせた。夜が明け、宿へ戻ってから、夢二はたまきの左腕を刺した。

刃が抜けず、ハンカチで縛って止血した。呼び寄せた知人にも、夢二にも抜けなかった。たまきは、こう記している。

「私が自分で抜きました。」

夢二の嫉妬を、愛の深さと読むわけにはいかない。ここにあるのは、たまきが自分の体に受けた暴力の証言だ。

田中の本には、夢二の作品や資料を集めた蒐集家・長田幹雄の話も出てくる。長田によれば、この年の12月に夢二が出した本『SERENADE』に収めた詩「北越行」は、たまきの心変わりを責めた詩だという。

夢二とたまきの関係は破局へ向かった。それでも港屋の営業は1916年秋まで続いた。

彦乃と描いた帯、彦乃を描いた温泉街

富山の事件の前の年、1914年に、港屋で夢二と出会った女性がいる。笠井彦乃。日本橋の紙商の娘である。たまきを責めた夢二自身も、すでに別の女性と親しくなっていた。彦乃はのちに夢二に絵の指導を願い出て、女子美術学校に編入している。

夢二は1916年に京都へ移り、翌1917年6月には彦乃も京都へ来て同棲を始める。父親の反対を押し切ってのことだった。

彦乃は、夢二に描かれるばかりの人ではない。この年、金沢で開かれた夢二の展覧会に、山路しのという名で自分の作品を出品している。

二人で草花を描いたと伝わる帯も残る。布は、彦乃の生母が手織りした絹だった。恋人に絵の中の衣装を着せるだけでなく、二人で描いたものを、彦乃が実際に身につけていた。

竹久夢二・笠井彦乃《合作帯》(1917年頃、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「合作帯」)
竹久夢二・笠井彦乃《合作帯》(1917年頃、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「合作帯」)

この帯を彦乃が締めた写真が、湯涌温泉の山下旅館で撮られている。夢二と彦乃は、夢二の次男を連れて北陸を旅し、1917年9月24日から10月16日まで、金沢郊外のこの温泉に滞在した。

その間の10月7日、夢二は彦乃をモデルに《湯の街》を描いた。制作の日は、二人の日記から確かめられる。夢二自身、「好いのが出来た」と喜んだという。

竹久夢二《湯の街》(1917年、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「湯の街」)
竹久夢二《湯の街》(1917年、金沢湯涌夢二館)。出典:金沢湯涌夢二館(金沢ミュージアムプラス「湯の街」)

《さくら湯》には銭湯帰りのたまきがいた。《湯の街》には、旅先の彦乃がいる。あとで失われる時間が、ここではまだ続いていた。

1918年、九州への旅行中に彦乃は病に倒れる。結核だった。父親の手で夢二から引き離され、入院した。夢二も11月に東京へ帰り、菊富士ホテルに移った。

二人は互いを、彦乃は山、夢二は河と呼んでいた。1919年2月、夢二は彦乃に捧げる歌集『山へよする』を出す。まだ届く相手がいるうちに刊行された本だ。

彦乃は1920年1月16日、東京の順天堂医院で世を去った。満23歳だった。

お葉が通った部屋に、油絵もあった

彦乃の入院中だった1919年春、友人たちの紹介でお葉が夢二のモデルになった。彦乃と引き離され、絵筆をとれないほど落ち込んだ夢二を気づかってのことだった。

お葉の戸籍名は佐々木カ子ヨ(カネヨ)。お葉は夢二がつけた愛称である。秋田から上京し、東京美術学校でモデルの仕事をしていた。冒頭のホテルへ通っていたのは、この人である。

お葉(1919年頃)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
お葉(1919年頃)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

籍の上では、夢二に妻はいない。それでも、病床の恋人がいるうちに、新しいモデルとの時間は始まっていた。同じ1919年、夢二はお葉を伴って初めて伊香保を訪れている。お葉は、やがて夢二の恋人になる。それが彦乃の生きているうちに始まっていたのなら、入院中の恋人を置いた不倫である。ただ、二人がいつ恋人になったのかを書いた資料は、確かめた中には見当たらない。

夢二の好む立ち居振る舞いを身につけたお葉は、絵から抜け出してきたような美人ともいわれた。絵が人に似るだけでなく、人が絵に近づいていく。夢二の美人画では、その順序が入れ替わる。

冒頭の《黒船屋》を、もう一度見る。女性が抱いているのは黒猫だ。江戸時代には、黒猫を飼うと結核が治ると信じられていた。そこから、この絵は結核の彦乃を想って描いた作品と読まれてきた。一方、近藤富枝は、彦乃の面影とお葉の姿が重なった作品と書いた。

1919年からは、お葉をモデルに、量感のある体つきの女性像が現れる。頽廃的な雰囲気をまとった、新しい夢二式である。とはいえ、モデルとの暮らしと絵の変化は、きれいに一対一では並ばない。《黒船屋》も、その境目には収まらない。

同じ1919年頃の油絵《アマリリス》では、モデルはお葉と考えられている。夢二は日本画や水彩ばかりでなく、油絵にも取り組んでいた。

竹久夢二《アマリリス》(1919年頃、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「11/23 夢二生誕140年プレミアムツアー ―学芸員と巡る夢二のふるさとと幻の名画《アマリリス》ー」
竹久夢二《アマリリス》(1919年頃、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「11/23 夢二生誕140年プレミアムツアー ―学芸員と巡る夢二のふるさとと幻の名画《アマリリス》ー」

こちらには、ホテルの外へ出た経歴がある。1919年9月、福島で開かれた夢二の展覧会に出品され、当時の新聞にも図版が掲載された。のちに夢二が菊富士ホテルの主人へ贈り、応接間に掛けられていたとされる作品である。

出会いは彦乃の入院中だった。お葉と渋谷に所帯を持つのは、年譜では1921年6〜7月頃である。その時には、彦乃が世を去って1年以上が過ぎていた。

少年山荘から金沢へ出ていく

1924年末、夢二が設計した住居兼アトリエの少年山荘が完成し、お葉や息子たちと暮らし始めた。

少年山荘のテラスは、昭和初期の《憩い(女)》にも描かれた場所である。この絵は、男性を描いた屏風と対になっている。モデルの名はここで決められないが、夢二が自分の住まいを女性像の舞台にしたことはわかる。銭湯の帰り道から、二人で泊まった温泉街、そして自分が建てた家へ。絵を描く場所も、夢二の暮らしに沿って移っていた。

竹久夢二《憩い(女)》(昭和初期、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「所蔵作品」
竹久夢二《憩い(女)》(昭和初期、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「所蔵作品」

しかし、家ができても、彦乃の面影はそこから去らなかった。お葉にとって、亡くなった彦乃の面影を追い続ける夢二との生活は苦しいものだった。1925年、お葉は自殺を図り、療養のために金沢郊外の深谷温泉へ向かう。一度は夢二のもとへ戻ったが、その夏、再び金沢を訪れ、別れを決意した。

こうして、お葉は夢二のもとを去った。その後も長く生き、1980年に世を去っている。夢二が世を去ってから46年後のことだった。

応接間に残された《アマリリス》

夢二は1934年9月1日、富士見高原療養所で世を去った。49歳だった。その半年ほど後、たまきが療養所を訪ね、縫い物や洗濯をして奉仕したという話も伝わる。たまきは1945年に世を去った。腕に刺さった刃を自分で抜いたという言葉は、「夢二の想出」に残っている。

菊富士ホテルは、1944年に閉じる。応接間にあった《アマリリス》は、長く所在がわからなくなったが、近年の調査で発見され、2023年に夢二郷土美術館へ収蔵された。2024年の生誕140年記念展では、発見後初めて東京で公開された。

40番の部屋から始まった話は、絵が掛かっていた応接間へ戻ってくる。たまき、彦乃、お葉。三人の名を知ってから見る美人画では、描いた日の隣に、いつも別れた日がある。

出典

注

  • 富山の事件の月は、開いた典拠には書かれていない。夢二の富山での画会は1915年3月、詩「北越行」を収めた『SERENADE』は同年12月の刊行。
  • 夢二の没後、たまきが療養所を訪ねた話は、富士見町高原のミュージアムの図録による(個人のブログに引かれた文で確かめた)。図録も「という話も伝えられている」と書く。
  • 彦乃の享年は、年譜では数え年の25歳。満年齢は23歳。
  • 《さくら湯》(竹久夢二美術館)、《港屋開店記念風呂敷》《合作帯》《湯の街》(金沢湯涌夢二館)、《アマリリス》《憩い(女)》(夢二郷土美術館)の図版は、各所蔵館が公開している作品の写真による(《港屋開店記念風呂敷》《湯の街》は台紙・色票の写った部分を切り落とした)。《黒船屋》《港屋絵草紙店》は cugira のカタログの画像。岸たまきとお葉の写真は Wikimedia Commons(パブリックドメイン)による。
  • 東郷青児(1978年没)の作品は著作権の保護期間内のため、図版を置いていない。

Images

  • 竹久夢二《黒船屋》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 竹久夢二《Minato-ya Ezōshi Ten》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「大正ロマン・昭和モダン 大衆芸術の時代展~竹久夢二から中原淳一まで~」茨城県天心記念五浦美術館、2009年Source

この記事に出てくる作家

竹久夢二

Takehisa Yumeji

1884–1934

東郷青児

Seiji Togo

1897–1978