風呂敷に「CHERRY-LAND」

美人画で知られる画家・竹久夢二に、《MINATOYA JAPONICA CHERRY-LAND》という題の風呂敷がある。MINATOYA は港屋。1914年、夢二が東京・日本橋に用意し、妻だったたまきが営んだ店の名だ。店を始めるときに、夢二は包むための布までデザインしていた。

京都国立近代美術館に残るこの風呂敷は、77.0×70.0センチ。飾っておくこともできるが、もともとは荷物を包み、結んで持つ品だ。使えば絵に折り目がつく。包んだ物の形によって、表に出る部分も変わる。それでも、夢二は絵を布に載せた。

使う品に絵を載せる。夢二の仕事には、こういう面白さがある。絵の前に立って眺める時間だけでなく、物を包む時間にも、誰かに手紙を書く時間にも、彼の描いたものが入り込む。あの英字の店では、どんな品が売られていたのだろう。風呂敷の画像は出せないが、同じ1914年に港屋が出した木版が残っている。

竹久夢二
Minato-ya Ezōshi Ten
1914 木版画

雑誌への投稿が、画集になる

夢二は1884年、岡山に生まれた。美術学校で学んだ画家ではなく、独学で絵を描き、新聞や雑誌への投稿から仕事を始めた。1905年には、雑誌『中学世界』に応募したコマ絵(小さな挿絵)「筒井筒」が第一賞に入選し、このとき初めて夢二の筆名を用いた。

紙面には、すでに文章があり、読む人がいる。そこに一枚の絵を差し込む。夢二の出発点は、そんな場所だった。のちに本の表紙や楽譜を手がける人になったことを思うと、絵と言葉が隣り合う仕事は、初めから彼の身近にあった。

1909年には、最初の著書『夢二画集 春の巻』を出版する。

その後も画集や詩画集を刊行し、1930年までに自著は約60冊に及んだ。絵を描くだけでなく、詩や文章を書き、一冊の本にまとめた。

絵葉書も継続して発行した。1911年に始まった『月刊夢二エハガキ』は約9年続き、102集に達する。一度の展覧会で作品を見せて終わるのではなく、次の月にも新しい絵を届ける。絵葉書なら、絵を買うことと便りを出すことが一つになる。

1912年には京都・岡崎公園の京都府立図書館で初めての個展を開き、137点を出品した。夢二は日本画のほか、水彩画、油彩画、木版画も制作している。描く方法も、作品を届ける方法も、一つに決めてはいなかった。展覧会を開く画家の仕事と、印刷して広く届ける仕事は、同じ時期に進んでいた。風呂敷へ向かう道は、すでに本や絵葉書のかたちで伸びていたのである。

美人画のそばに、たまきがいた

大きな目に細い体つき。のちに「夢二式美人」と呼ばれる女性像の出発点には、1907年に結婚した岸たまきがいた。夢二の妻となり、絵のモデルを務めた人である。1909年には戸籍上離婚するが、彼女はのちに港屋を任される。

夢二式と呼ばれた女性像は、雑誌や画集を通じて広まった。美人画を一枚の大きな作品として見る前に、読んでいた本の中で出会った人もいただろう。美術館に行く習慣がなくても、絵の女性は手元にやって来る。

竹久夢二
A Woman Resting on Grass
絹本着色

《草に憩う女》は、その女性像を考える一枚だ。題は、休んでいるという一瞬のことだけを告げる。誰を待っているのか、何を考えているのかまでは決めない。ここには、物語の説明を添えずに人の気持ちを想像させる余地がある。

夢二が描く女性の大きな目や細い体つきは、顔立ちや体つきの特徴であると同時に、感情を置く場所にもなっている、と読める。顔を覚えるより先に、気持ちが気にかかる。夢二式美人の魅力は、そこにあるのではないか。

ただ、たまきの役割をモデルだけで終えると、港屋の話が抜け落ちる。絵に描かれる側だった彼女が、今度は夢二の絵を商品として客に渡す側になる。1914年の開店挨拶状には、彼女の名が残っている。

呉服橋に、半襟の店を開く

港屋絵草紙店は、1914年10月、日本橋区呉服町に開店した。呉服橋の東詰である。夢二がたまきの自活のために用意した店で、営業は1916年秋まで続いた。

たまきの名で出された挨拶状には、木版画、カード、絵本、詩集と並んで、絵日傘、人形、千代紙、半襟が挙がる。後の四つを、挨拶状はこう書いている。

「日本の娘さんたちに向きさうな」

読む品、眺める品、身につける品が、一つの店に置かれる。店は、夢二の絵を若い女性の暮らしに届けようとしていたように見える。

挨拶状の終わりでは、散歩がてら遊びに来てほしいと客に呼びかけている。品ぞろえも店への誘い方も、絵の売り場を日常の買い物に近づけている。

店の主力商品は半襟だった。着物の襟元につける細い布である。夢二が描いたものを、顔のすぐそばに身につけられる。たまきを描いて生まれた女性像と、たまきの店で売る服飾品とが、ここでつながる。

現存する品には、夢二が図案を描き、ミシン刺繍の職人・吉田ソノが仕上げた半襟がある。画家の線が、別の人の技術を通って、襟元の飾りになった。

港屋の商品には、ほかに絵封筒、便箋、手拭い、帯、浴衣もあった。絵を買う入り口が、額に入れる作品一つに限られない。手紙を出したいなら便箋を、着物に合わせたいなら半襟を選べる。その人が日々することに合わせて、絵の居場所が変わる店だった。

営業したのはおよそ2年だが、店のために作られた紙や布は残った。冒頭の風呂敷も、その一枚である。

包む布に、架空の港を載せる

同じ図柄とみられる風呂敷が、金沢湯涌夢二館にも残る。館の解説によれば、描かれているのは、黒船が来航した江戸時代の港に、芸者や宣教師、舶来品と、日本を思わせる建物や生き物を集めた空想の世界だという。英字は布の上部の左右に入っている。

「CHERRY-LAND」は、桜の国を思わせる言葉だ。店名と並べることで、MINATOYAは住所にある店の名であるとともに、絵の中の港へ入る看板にも見えてくる。歴史上の一場面を説明する絵として読むより、夢二が取り合わせた日本と異国を楽しむほうが、この布には似合う。

英字も、その取り合わせの一部と見たい。

呉服橋の店の風呂敷に、英字を入れる。国内の暮らしの品に、遠い国を思わせる言葉が載る。夢二が洋雑誌や美術書から図版を切り抜いてスクラップ・ブックに貼り、国内外の美術雑誌を参照していたこととも、無理なく重なる。

ここで、包むという使い道が効いてくる。布を広げたときには一つの絵になるが、結んだときには、絵と文字の断片を持ち歩くことになる。開いた絵の全体だけが、この品の姿ではない。

結んだときにどの文字が外に出るかは、包み方次第である。もしこの布で品を包んで持ち帰ったなら、客は商品と一緒に、港屋の名の入った絵を手にしたことになる。

一枚の布に、売る場所の名まで描く。夢二は、絵をどこから届けるかというところにも手を入れていた。

《宵待草》は、開けば歌える

港屋の営業が終わる1916年、夢二はセノオ楽譜の表紙を手がけ始めた。その仕事は昭和に入っても続き、270余点に及ぶ。風呂敷に絵と店名を載せた人が、今度は絵と曲名を一枚の表紙にまとめていく。

楽譜の表紙も、眺めて終わる絵ではない。歌ったり演奏したりするために開く。表紙を見たあとに、その先の時間がある。

その中に『セノオ楽譜No.106「宵待草」』がある。

《宵待草》では、夢二は表紙だけでなく、言葉も届けている。詩のもとになった作品は1912年に雑誌『少女』で発表され、翌1913年の詩画集『どんたく』で、現在知られる詩形になった。来ない人を待つ思いを、宵を待つ草に重ねた詩である。

それに曲をつけたのは、作曲家でヴァイオリン奏者の多忠亮だ。夢二の言葉が、多の音楽になり、夢二の表紙をまとった楽譜として1918年に出版された。一人の仕事に、別の人の仕事が加わって届く。港屋の刺繍入り半襟にも、同じような受け渡しがあった。

ここに載せたのは1924年の版である。京都国立近代美術館の所蔵本も、1924年の五刷だ。初版が出たのは1918年。その6年後にも、同じ曲を収めた楽譜が刷られていた。

同じ曲の楽譜が刷り重ねられ、そのつど表紙も届けられる。絵が人の手に渡る機会を、出版が繰り返し作っていた。

この表紙の女性を、ただ一人の肖像として見る必要はないだろう。詩が伝える待つ気持ちと、絵の女性とが、読む人の中で重なる。そのあとに声を出せば、さっきまで紙にあった言葉が、自分の息で歌になる。絵、詩、曲が、一冊を使う時間の中でつながるのである。

《黒船屋》の木箱にも、文字がある

1919年に描かれた《黒船屋》は、夢二の代表作として知られる。現在は竹久夢二伊香保記念館が所蔵している。

竹久夢二
黒船屋
1919

この作品で気にかかるのは、女性が腰かける木箱の「黒船屋」という文字だ。風呂敷のMINATOYAを思い出させる。港屋の風呂敷とこの絵に、直接の制作上のつながりがあると断定はできないが、港を思わせる名を、絵の中の物に持たせているところは重なる。

着物の女性を描きながら、その居場所には海の向こうを思わせるものがある。風呂敷で日本と異国を一つの港に集めた取り合わせが、美人画の中にも見つかる。日用品の図案と並べると、夢二が美人画に持ち込んだ異国への関心も浮かんでくる。

美人画と暮らしの品を並べると、どちらにも夢二がいる。人の気持ちを想像させる女性像、古い日本と異国への関心、絵の中で働く文字。描く場所が変わっても、彼の好みは続いている。

港屋のあとに、学校を計画する

1923年、夢二は仲間と「どんたく図案社」を準備した。ところが、営業を始める直前に関東大震災で全焼した。絵と暮らしをつなぐ新たな仕事の場は、開くところまでたどり着けなかった。

翌1924年には、自ら設計した自宅兼アトリエ「少年山荘」を建てる。ここでは創作人形にも取り組んだ。半襟や風呂敷に手を伸ばした画家は、住む家にも、立体の人形にも関心を向けていた。

1930年には、群馬県の榛名で美術研究所を開く計画を立てた。身近な自然や手仕事を尊び、生活に結びつく美術を求める構想だった。翌1931年にアメリカへ渡り、続いてヨーロッパへ赴いた。産業美術を視察するための旅でもあった。

研究所の開設は延期され、帰国後も実現しなかった。1934年、夢二は療養先の長野で世を去る。

それでも、包む布と、歌うための紙は残った。

あの風呂敷をもう一度、広げてみる。MINATOYAは、営業を終えた店の名前である。だが、布は今も包める形をしている。店の扉が閉まったあとも、夢二の絵には、使う人の手が入る余地が残っている。

出典

注

  • 港屋の風呂敷(京都国立近代美術館)・開店挨拶状と半襟(金沢湯涌夢二館)・『夢二画集 春の巻』の表紙は、自由に使える画像が見つからず、図版を置いていない。風呂敷の図柄の読みは、金沢湯涌夢二館が所蔵する同じ図柄の《港屋開店記念風呂敷》の解説による。
  • 自著の冊数は、夢二郷土美術館は約60冊、竹久夢二美術館は57冊とする。
  • 『セノオ楽譜』の《宵待草》の発行月は、資料によって1918年5月とも9月ともいう。1921年刷の表紙では題が「待宵草」になっている。図版は1924年の版(夢二郷土美術館蔵)。

Images

  • 竹久夢二《Minato-ya Ezōshi Ten》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「大正ロマン・昭和モダン 大衆芸術の時代展~竹久夢二から中原淳一まで~」茨城県天心記念五浦美術館、2009年Source
  • 竹久夢二《A Woman Resting on Grass》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 竹久夢二《セノオ楽譜No.106「宵待草」表紙》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「夢二郷土美術館所蔵 竹久夢二名品100選」東方出版、2007年、ISBN 978Source
  • 竹久夢二《黒船屋》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource

この記事に出てくる作家

竹久夢二

Takehisa Yumeji

1884–1934