菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安時代を代表する学者・政治家である。文章や漢詩に優れ、学者の家の出身でありながら右大臣まで昇った。しかし901年、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)から、醍醐天皇を退けて別の皇族を即位させようとしていると告げられ、大宰府へ左遷される。
この事件は「昌泰の変(しょうたいのへん)」と呼ばれる。道真が実際に皇位をめぐる企てをしていた証拠はなく、後世には、道真の出世を警戒した時平が讒言(ざんげん)によって失脚させたと語られてきた。
天拝山で無実を訴える
都での地位を失った道真は、家族とも引き離され、大宰府で暮らすことになった。役所には出仕できず、罪人に近い扱いを受けていたと伝えられている。
伝承では、道真は大宰府の南にある天拝山(てんぱいざん)へ登り、七日七夜にわたって自らの無実を天に訴えたという。
月岡芳年の皇国二十四功 贈正一位菅原道真公は、この天拝山での道真を描いた一枚である。
道真は裸足で険しい岩場に立ち、手にした杖を空へ突き上げている。髪と衣は激しい風にあおられ、黒い空を白い稲妻が走る。罪を認めて許しを請う姿ではない。自分を陥れた者への怒りを抱えながら、天に正しい裁きを求める場面である。
大宰府での死と太宰府天満宮
道真はその後も大宰府で暮らし、左遷から約二年後の903年に亡くなった。
遺骸を牛車で運んでいたところ、牛が途中で伏して動かなくなったため、人々はその場所を道真が望んだ墓所と考えた。道真はそこに葬られ、のちに墓所を守るための社殿が建てられた。
これが現在の太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)である。太宰府天満宮は道真を神として祀る神社であると同時に、道真本人の墓所でもある。
太宰府天満宮
菅原道真の墓所に建つ神社。道真を祀る全国の天満宮の中でも、特に重要な場所として信仰を集めている。
現在、境内には道真と縁の深い牛の像が置かれている。牛をなでる信仰も、道真の遺骸を運んだ牛が動かなくなったという伝承と結びついている。
太宰府天満宮の御神牛像
道真の遺骸を運ぶ牛が伏して動かなくなったという伝承にちなみ、伏した姿で表されている。
都を襲った道真の祟り
道真の死後、都では不幸な出来事が続いた。
道真を失脚させた藤原時平は909年、39歳で亡くなった。その後も皇族や朝廷の要人が相次いで病死し、疫病や天変地異も起こった。人々は、無実の罪で追放された道真が怨霊となり、自分を陥れた者たちに復讐しているのではないかと恐れた。
なかでも大きな衝撃を与えたのが、930年の清涼殿落雷事件である。
清涼殿は、天皇が日常を過ごす宮中の中心的な建物だった。その清涼殿に雷が落ち、居合わせた公卿や役人たちが焼かれて死傷した。惨状を目の当たりにした醍醐天皇は強い恐怖に襲われ、その後、体調を崩したと伝えられている。天皇は回復しないまま、落雷事件から約三か月後に崩御した。
宮中の中心を襲った雷は、道真の怨霊による祟りだと受け取られた。後世の北野天神縁起絵巻では、雷神となった道真が都へ災いをもたらす物語として描かれている。
芳年の画面に走る稲妻も、天拝山での祈りだけを表しているわけではない。道真が死後に雷神として恐れられることまで知ると、この雷が後の清涼殿落雷事件を予告するようにも見える。
怨霊から天神さまへ
朝廷は道真の怒りを鎮めるため、左遷の処分を取り消し、失われた官位を戻した。さらに道真の霊を神として祀るようになる。
947年には京都の北野に社が建てられ、現在の北野天満宮(きたのてんまんぐう)へと発展した。987年には一条天皇から「北野天満大自在天神(きたのてんまだいじざいてんじん)」の神号が贈られる。
無念のうちに亡くなり、雷や疫病をもたらすと恐れられた道真は、こうして「天神さま」と呼ばれる神になった。
太宰府天満宮は道真の墓所として、北野天満宮は都でその霊を鎮める社として信仰を集めた。やがて、生前の道真が優れた学者だったことから、天神さまは学問や文章、文化芸術の神としても祀られるようになる。
現在では受験合格を願う神として親しまれているが、その信仰の始まりには、都に雷と災いをもたらす怨霊への恐怖があった。
菅原道真は、平将門(たいらのまさかど)、崇徳院(すとくいん)と並び、「日本三大怨霊」の一人に数えられている。芳年が描いたのは、後世の穏やかな学問の神ではない。無実の罪で都を追われ、天へ怒りを訴え、やがて雷神として恐れられることになる道真である。

月岡芳年
Tsukioka Yoshitoshi
1839–1892
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- 月岡芳年《皇国二十四功 贈正一位菅原道真公》 — パブリックドメイン(国立国会図書館デジタルコレクション) / 国立国会図書館デジタルコレクションSource
